5ちゃんねる ★スマホ版★ ■掲示板に戻る■ 全部 1- 最新50  

■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています

泣ける話@軍事板第4章

1 :名無し三等兵:02/03/09 20:28
>泣かない人間を非難する前に、自らの涙に恥じぬ振る舞いをせよ。
初代スレ756氏

未だ見ぬ誰かの為に、その尊い命を捧げた英霊達に捧ぐ

過去スレ
1 http://yasai.2ch.net/army/kako/984/984375960.html
2 http://yasai.2ch.net/army/kako/995/995188351.html
3 http://yasai.2ch.net/test/read.cgi/army/1004354273/l50

2 :お茶っぴき:02/03/09 21:07
>>1
一瞬、意味を取り違えてしまった。すまぬ。

名言やな。

3 :名無し三等兵:02/03/09 21:10
俺も早く、自分の命を捧げたい大切な人が( ゚д゚)ホスィ。

4 :眠い人 ◆ikaJHtf2 :02/03/09 23:38
昭和19年、マレー半島ペナンに司令部を置く高須四郎中将麾下の南西方面艦隊
は、インド洋に於いて通商破壊戦を立案し、左近允尚正少将を司令官とする重巡
青葉以下の第16戦隊に出動を命じた。

3月9日、臨時に第16戦隊に派遣された重巡「利根」が、豪州から肉、小麦などの
食料を満載してインドへ向かう英国商船ビハール号を発見、停船を命じたが、逃走
を企てたので砲撃して撃沈した。

その際、一旦救助した捕虜80名のうち65名を利根艦上で処刑したと言う容疑で、
左近允中将と、当時の利根艦長黛大佐が香港法廷で戦犯として裁かれ、左近允
中将は絞首刑、黛大佐は懲役7年に処せられた。

その左近允中将は昭和23年1月21日、「絞首台何のその 敵を見て立つ艦橋ぞ」
と言うすさまじい辞世を残して刑場の露と消えた。
遺骨はもとより遺品も帰らなかったという。

20年後、香港をインドネシアに赴任する防衛駐在官が訪れた。
香港領事が観光案内をしようとするが、スタンレー刑務所の死刑囚監房と絞首台を
一目見たいという。
その人こそ、左近允中将の一人生き残った息子、尚敏二佐であった。

領事は意気に打たれて、様々な策を弄し、法務官と言うことにして、その刑務所と
内部の死刑囚監房、絞首台の見学を認めさせた。
彼は絞首台を見学した後、所長と喋っている間に、左近允二佐を絞首台に戻し、霊に
手を合わすように配慮までした。

左近允二佐は思いを遂げることが出来、感無量であったが、ゲートで所長に別れを
告げたとき、所長の一言に驚愕し、感動した。
「ミスター・サコンジョウ、お別れのお祈り、十分為さいましたか?
 ご満足頂けましたか?」
彼は騙されたふりをして、左近允二佐の鎮魂の手伝いをしてくれたのであった。

5 :名無し三等兵:02/03/09 23:46
なんで捕虜を虐殺したの?
理由もなしに殺すようなことはないだろうさすがに。
なぜ殺したの?

6 :名無し三等兵:02/03/09 23:49
>>5
うぜーんだよ、チョン。
てめえで殺しまくる奴にそんなこといわれたくねんだよ

7 :名無し三等兵:02/03/09 23:51
>>5
そこに捕虜がいるから

8 :名無し三等兵:02/03/09 23:52
>>6
はあ?なんだいきなり。
なぜチョン?ちょっと危ないぞこいつ

9 :名無し三等兵:02/03/09 23:53
確かに日本軍の事だとすら書かれていないのに朝鮮人と言い出すのは
わけわからんな。>>5はもっとわけわからんが。

10 :5:02/03/09 23:56
じゃあ理由もなしに殺したということなのか?
俺は純粋に理由が知りたいだけだったんだけど

11 :名無し三等兵:02/03/09 23:57
>>10
何時何処で誰が何をどうやって殺したのか書いてないから回答不可

12 :5:02/03/10 00:00
>>11
>>4の件について聞いてるんだが

13 :名無し三等兵:02/03/10 00:07
最近軍事版すぐ荒れるな
せめてこの板だけはマターリできないもんかね

14 :眠い人 ◆ikaJHtf2 :02/03/10 00:09
>12
とりあえず、ビハール号事件については、左近允中将が命じたとしか
言えないけどね。
(黛大佐は猛抗議して15名の婦女子とインド人を解放させたと言っている。
 なので、7年で済んだと言えるかも)

ただでさえ当時の日本の軍隊にとって捕虜なんて言うのは、意味のない
存在なのですよ。

ジュネーブ条約なんて無視無視。
それに、捕虜なんて無為徒食の輩で食糧事情の悪い折りに、80名もの
捕虜を連れて帰ったら、ペナンの司令部からは何を言われるか判らない。
なので、いっそのこと全員殺してしまえということじゃないのかな。

酷い見方かもしれんが、詳しい資料がなかったもんでな。
気になるなら、質問スレに行くことで、回答が得られるかも知れんぞ。

15 :5:02/03/10 00:16
>>14
そうなんですか・・・
帝国海軍は理由もなく捕虜を虐殺するような組織じゃないと思ってたんですが
まあそういうこともあったんですね。

16 :名無し三等兵:02/03/10 05:24
>>15
>食糧事情の悪い折り
強いて言うならこれが理由ですかね


17 :ニュース議論板より:02/03/11 14:26
 日本海軍は北洋警備−北洋漁業保護の為に、最旧式駆逐艦を以て編成する駆逐隊の一隊(定数四隻 司令は大佐または古参の中佐)を毎シーズン派遣しておりました
 國民性なのでせうか、蘇聯は昔から露骨な國で、我が駆逐隊が漁業海域に到達し警備任務に就くや、日頃横暴なる蘇聯艦艇も、途端に猫の如く大人しくなりました
 だから駆逐隊は毎度漁民から熱狂的大歓迎を受けたものですが、必要に応じ、戦隊若くは艦隊を神速に
派遣することも行はれたやうです

 父の友人に「ひうらさん」といふ越後人がありました
 生きて居られればゆうに百歳超えませう
 明治の御代に雪の越後を後にして、刻苦勉励、数多辛酸を嘗め、戦後は小金持になり、銭湯など経営して世を終へられました
 この御仁が、大正の末か昭和の初め、蟹工船に乗組んで北洋漁業に従事してゐた時の話です
 氷濤の中、果敢に操業してゐた或日、突然蘇聯の警備艦艇に謂れ無く拿捕され、乗組員一同、浦塩に聯行、
抑留されました
 此処までは今日と同じです

 取調べは惨たらしいもので、生きて再び日の目を拝めるかと思った程ださうですありもせぬ犯罪事實の自白を強要され、半殺し状態で朝を迎へ、再び鐵格子の中から引き出されました
 いよいよ殺されるかと半ば覚悟した途端、何故か赤魔官憲の態度が掌を返す如くに豹変し、捜査は打切り、無罪放免
 露西亜紅茶まで振舞はれてにこやかに釈放するではありませんか解き放たれたひうらさん達は警察署だか獄舎だかの外へ出ました
 天然の港町なら大概、地形的に港へ向って傾斜し、海側の眺望が開けているものです、半信半疑の儘、ともかくも港へ向はむとふらつく脚を海へ向けました
 その瞬間、何故、助かったかが判りました


18 :ニュース議論板より:02/03/11 14:29
293 名前:  :02/03/11 14:09 ID:kcn5pK1X
 沖には日本海軍の大艦隊が間近く展開し、旗艦たる巡洋艦以下、各艦砲身を陸に向け、砲門を開き、その強大な攻撃力は毎分幾百幾千發ぞ
 陛下の赤子にかすり傷だに負はせなばウラジオストックそのものを消滅させんばかりの圧倒的武威を以て、ソヴィエト社會主義共和國聯邦を威圧して呉れてゐたのです
 旭日の軍艦旗の何と美しく、浮かべる城の何と頼もしかったことでせう
 皆、感泣しました
 鋼鐵の艦体に頬ずりしたい思ひで‥‥

 ひうらさんは無事、日本に帰りました
 取るにも足らぬ漁舟の、僅かな人数の乗組員の為に、大國相手の戦争をも辞せず、
瞬く間に艦隊を繰り出して救出してくれた祖國日本の親心に酬いる為にも、なほ一層仕事に励み、三代の御代を生き抜き、東京都江戸川区小岩の自邸で、四半世紀ほど前に大往生を遂げられました
 勤倹貯蓄、關東大震災の前の歳に買ったといふ革靴を、靴底だけ張替へ張替へして
生涯穿き続けました
「贅澤をする金があったら海軍に献金でもせい!」

(以上の話には良く判らない点もありますが、今となっては確かめやうも無く、聞い
た侭に記しました)

http://village.infoweb.ne.jp/~navy/toukou/001.htm


拉致問題への今の政府の対応なんかを見ると、つくづく泣けるね。
http://kaba.2ch.net/test/read.cgi/news2/1015471063/l50

19 :名無し三等兵:02/03/11 16:52
>>17-18
(;´ー`)y-~~ん〜、チョンだの在日だの言ってるのがバカらしくなるね。
       久々に泣ける話だ・・・・・・

20 :無名兵士:02/03/11 20:16
まったくだな、なぜ国会では大言するのに
国からでると、おっかなびっくりなのか? 内輪弁慶とは
こーゆ事だな

21 :名無し三等兵:02/03/11 20:22
亡国害務官僚どもの耳かっぽじって、流し込んでやりたい話だな。
どうもこの頃、日本は現在よりも戦前の方がよっぽどマトモな国だったのではないかと思えてきたよ。

22 :現代こそ泣きっぱなしだよ!!:02/03/11 20:28
>>20
違〜う!!
日本は近年は経済力が軍事力程モノをいっていたのじゃよ。
だから、弱腰でもなんでもカネを握れればこその弱腰外交です。
テメェらだけ(一部の日本人)がカネを握って、国のステイタスはボロボロだけど。
でもさ、もうカネもないからナメられっぱなし。
ワールドカップだってKOREA JAPANじゃん
足蹴にされてもわかんない方が・・・


23 :名無し三等兵:02/03/11 21:57
今日仕事中にタクシーに乗ったら、たぶんムネオ話を聞いていたのかNHKラジオが
付いていたんだわな、午後だけど。
で、なんか年金関係の視聴者からの電話相談に答えるという番組をやっていて、その中
に84歳のオバァちゃんからの軍人恩給のことを話していた。このオバァちゃんの夫は
結婚して2ヶ月で南方の海に散ったらしい。しかしその後もこのオバァちゃんは籍を抜く
訳でもなく有髪の尼のように生きてきたようだった。
 金銭関係の話になった時、アナウンサーが「御子さんはどうしてらっしゃいますか?」
と聞くと「いないんです。結婚して2ヶ月でしたから・・・」と消え入るように言った
のがかわいそうだった。
ただ今は別に暮らしているが養女がいるとのことだった。どういう事情が知らないが
このオバァちゃんの健康を祈らずにはいられなかった。

24 :名無し三等兵:02/03/11 22:04
>22
いってないぞ。
いっているなら、なんで漁民が拿捕されて帰ってくるのに大変な労苦がかかる。
帝國海軍が展開すれば、あっというまに開放されたのと、どうしておなじなんだ?
なんで、北朝鮮に拉致された国民を助けられないんだ?
日本は手をださないと、なめられてるからじゃないか!
ペルーの人質の時はなんなんだ?
イイ戦争の時、旅客機すらおくれない弱気なのはなんなんだ?
所詮世界は弱肉強食、強ければ正義。
理想と現実は違う。
金じゃねえ。所詮は軍事力と、それを行使できるかどうかだ。
帝國時代は、少数の漁民のために大国と戦争も辞さずという姿勢があった。
だから、恐れられたしモノをいった。
金をもととした弱腰外交なんて、なめられて、さらに馬鹿にされるだけじゃないか。



25 :海の人:02/03/11 22:12
>23
 きっと旦那さんは、いつまでも若いまんまなんでしょうなぁ。
 もう、はや60年もたつのですか。

>24
>ペルーの人質の時はなんなんだ?

 加えて言うなら、あんとき殉職したペルー軍の兵隊そっちのけで
「無事です、無事です」騒いでたバカマスコミには、ほんとに泣けたよ。


26 :名無し三等兵:02/03/11 22:19
>>25
(;´ー`)y-~~それだけじゃねぇよ
       海自の掃海艇湾岸派遣の時に命がけの任務に発つ時
       自衛官が家族との一時の別れをしてる時に
       横で”軍国主義〜云々”ぬかしてた時もホント泣けたよ

27 :眠い人 ◆ikaJHtf2 :02/03/11 22:53
昭和30年代後半、まだ、日本が貧乏だった頃…。

世界各地の防衛駐在官の実情を視察するため、防衛庁の事務次官が
各国を回って歩いていた。

彼は交際費も情報収集費も不十分で他国の武官のように胸に付ける
勲章も略綬もなく、外務省の情報一元化の厳しいルールに縛られて
本庁との直接連絡も禁じられている防衛駐在官たちの不遇な立場に
痛く同情した。

そのために規程に基づく次官の出張旅費から50ドルずつ寸志として置いて
きた。
しかも、その間、彼は各地の防衛産業のテイクケアは全て断っていた。

そんなわけで、最後の訪問国でも買い物もしなかった。
そして、最後の50ドルになったとき初めて、空港の免税店で洋酒を買って
帰国していったという。

28 :名無し三等兵:02/03/11 23:06
>>27
(;´ー`)y-~~泣ける話じゃないが、なにげに胸が熱くなる話だ・・・・・
       今の日本にもこんな漢がいるんだな
       その心意気を見習いたいよ

29 :名無し三等兵:02/03/11 23:24
>>28
27の話がS30年代後半であり、それから40年ほどの年月が
たっていることから、今の日本ではより希少種になっている
であろうことがさらに泣ける話だよな。

30 :マスコミ:02/03/12 02:12
>>25
兵隊なんていう人殺しは人間ではないからいいのです。

31 :名無し三等兵:02/03/12 05:34
>>22
>ワールドカップだってKOREA JAPANじゃん

決勝戦を日本でやるかわりにKORIA JAPAN
にするという約束が事前になされていたようですよ。

スレと関係無いのでsage



32 :名無し三等兵:02/03/12 07:39
>>31
最初はアルファベット順でJAPAN-KOREAだったし、決勝も日本だった。
それ以前に、JAPAN単独開催だったはずなのに、突然割り込んできた。

日本ってほんとに外交ベタ。我を出すことはみっともない、
恨みを持つことは粘着だ、という考え方が根本にあるから
勝ってる時でも手心を加えて、相手を追い詰めない。そうすることで
後での和解の道を残している・・・つもりになってる。
そんなことをしても相手は感謝してないし、恨みを持った人間を逆に
量産するだけ。やる時はやる・やらない時はやらない、という
ケジメをつけれない国民性なのかね・・・。少し鬱らしい。氏脳。

33 :名無し三等兵:02/03/12 08:40
age

34 :大渦よりの来訪者 ◆Bzr3neko :02/03/12 10:22
>31
あれは日本のサッカー協会の連中に外交能力が無いからああいう事に成った。
本来は日本の単独開催だったのに、韓国の駄々を押さえ込めなかったのね。
しかも、いつのまにか日本が韓国に割り込んだ事にされているし。

別に事前に約束していた訳ではなく、後からFIFAの鄭矛盾、
とか言う韓国人が自分の韓国大統領戦の為に割り込んできた。
はっきり言って、ワールドカップの歴史に残る一大汚点の一つ。

35 :名無し三等兵:02/03/12 10:33
>>34
>しかも、いつのまにか日本が韓国に割り込んだ事にされているし。

え?マジ?

36 :名無し三等兵:02/03/12 12:07
>35
剣道をウリナラ起源にできてしまう国ですからそんなもん朝飯前のオイキムチでしょ。

37 :名無し三等兵:02/03/12 12:27
スレが荒れる原因なので、サッカーとチョソの話題はこれにて終了して下さい。

38 :名無し三等兵:02/03/12 12:29
スポーツを政治の道具にされなければいいが、
ボイコットなんてありえないので日本政府はいいなりでしょう。

39 :名無し三等兵:02/03/12 18:05
>>37
いわんとすることは良くわかるが、その臭いものにはフタの姿勢が
外交ベタに通じてるのではなろうかと、何となくオモタ

40 :名無し三等兵:02/03/12 18:36
http://www.iwojima.jp/index.html
いや、何つーか写真で見ると、こう・・・。

41 :いずな@兵:02/03/13 01:32
こりあ−じゃぱん
これ、右翼団体がこうすることによりこりあを懐柔しようとしたという噂あり

42 :名無し三等兵:02/03/13 08:17
>>41
大渦氏のいうとおりならまったく融和されてないじゃん

43 :名無し三等兵:02/03/13 08:17
右も左も意識せざる中華思想だか神州不滅思想に毒されているモナ

44 :名無し三等兵:02/03/13 08:19
>>43
じゃぁいいなり?

45 :名無し三等兵:02/03/13 12:24
到頭ハバロフスクの病院の一隅で遺書を書かねばならなくなった.
鉛筆をとるのも涙。どうしてまともにこの書が綴られよう!

病床生活永くして一年三ヶ月にわたり、衰弱甚だしきを以て、意の如く筆も運ばず、
思った事の何分の一も書き表せないのが何よりも残念。

皆さんに対する私のこの限り無い、無量の愛情とあはれみのこころを
一体どうして筆で現すことができようか。
唯、無言の涙、握手によって辛うじてその一部を表し得るに過ぎないであらうが、
ここは日本を去る数千粁、どうしてそれが出来ようぞ。

唯一つ、何よりもあなた方にお願ひしたいのは、
私の死によって決して悲観することなく、落胆することなく意気ますます旺盛に振起して、

病気せざるやう

怪我をしないやう

細心の注意を健康に払って、丈夫に生き永らへて貰ひたい。といふことである。

健康第一。私は身を以てしみじみとこの事を感じました。
決して無理をしてはいけない。
少しでもおかしいと思ったら、身体の具合を予め病気を防止すること。

帰国して皆さんを幾分でも幸福にさせたいと、そればかりを念願に十年の歳月を辛抱して来たが、
それが実現できないのは残念、無念。
この上は唯皆さんの健康と幸福とをお祈りしながら寂光浄土へ行くより他に仕方が無い。
私の希みは唯一つ、子供たちが立派に成長して
社会のためにもなり、文化の進展にも役立ち
そして一家の生活を少しづつでも幸福にしてゆくといふこと。
どうか皆さん幸福に暮らして下さい。これこそが、私の最大の重要な遺言です。
「お母様!」

「お母様!」

何といふ私は親不孝だったでせう
あれだけ小さい時からお母さんに(やはりお母さんと呼びませう)
ご苦労をかけながら、お母さんの期待には何一つ副ふことなく、
一家の生活がかつかつやっとといふ所で何時もお母さんに心配をかけ、
親不孝を重ねて来たこの私は何といふ罰当たりでせう。
お母さんどうぞ存分この私を怒って叱り飛ばして下さい。

46 :名無し三等兵:02/03/13 12:26
この度の私の重病も、私はむしろ親不孝の罰だ、業の報いだとさへ思ってゐる位です
誰も恨むべきすべもありません。皆自分の罪を自分で償ふだけなんです
。だから、お母さん、私はここで死ぬることをさほど悲しくは思ひませぬ。
唯一つ、晩年のお母さんにせめてわづかでも本当に親孝行したいーーと思ひ、
楽しんでゐた私の希望が空しくなったことを残念、無念に思ってゐるだけです。

お母さんがどれだけこの私を待って、待ってゐなさることか。
来る手紙毎にそのやさしいお心もちがひしひしと胸に沁みこんで、
居ても立ってもをれないほどの悲しみを胸に覚えたものです。
唯の一目でもいいから、お母さんに会って死にたかった。
お母さんと一言、二言交すだけで、どれだけ私は満足したことでせう。
十年の永い月日を私と会ふ日を唯一の楽しみに生きてこられたお母さんに
先立って逝く私の不孝を、どうかお母さん許して下さい。

お父さんと弟の勉と、妹のキサ子と四人で、
あの世に会ふ日が来れば、お母さんの事を話し合ひ、
お母さんが安らかな成仏を遂げられる日を共に待つことに致しませう。
あの世では、お母さんにきっと楽に生きていただかうと思ってゐます。

しかし、お母さん、私が亡くなっても決して悲観せず
決して涙に溺れることなく
雄々しく生きて下さい。
だって貴女は別れて以来十年間あらゆる辛苦と闘って来たのです。
その勇気を以て、どうか孫たちの成長のためにもう十年間闘っていただきたいのです
その後は少し楽にもらりませう。
私がこの幡男が本当に可愛いと思はれるなら
どうか私の子供等の、即ちお母さんの孫たちの成人のために倍旧の努力を以て生きて戴きたいのです。

やさしい、不運な、かあいさうなお母さん、さやうなら
どれだけお母さんに逢ひたかったことか!
しかし、感傷はもう禁物。強く強く、あくまでも強く、
モジミに協力して子供等を(貴女の孫たちを)成長させて下さい。お願いします。


47 :名無し三等兵:02/03/13 12:28
「子供等へ」

子供らへ。
山本顕一 厚生 誠之 はるか 君たちに会へずに死ぬることが一番悲しい。
成長した姿が、写真ではなく、実際に一目みたかった。
お母さんよりも、モジミよりも、私の夢には君たちの姿が多く現れた。それも幼かった日の姿で・・・あゝ何といふ可愛い子供の時代!

 
君たちを幸福にするために、一日も早く帰国したいと思ってゐたが、
到頭永久に別れねばならなくなったことは、何といっても残念だ。
第一、君たちに対してまことに済まないと思ふ。

さて、君たちは、之から人生の荒波と闘って生きてゆくのだが、
君たちはどんな辛い日があらうとも
光輝ある日本民族の一人として生まれたことを感謝することを忘れてはならぬ。
日本民族こそは将来、東洋、西洋の文化を融合する唯一の媒介者、
東洋のすぐれたる道義の文化――人道主義を以て世界文化再建に寄与し得る唯一の民族である。
この歴史的使命を片時も忘れてはならぬ。

また君達はどんなに辛い日があらうとも、
人類の文化創造に参加し、
人類の幸福を増進するといふ進歩的な思想を忘れてはならぬ。
偏頗で矯激な思想に迷ってはならぬ。
どこまでも真面目な、人道に基く自由、博愛、幸福、正義の道を進んで呉れ。

最後に勝つものは道義であり、誠であり、まごころである。
友だちと交際する場合にも
社会的に活動する場合にも
生活のあらゆる部面において、この言葉を忘れてはならぬぞ。

人の世話にはつとめてならず、人に対する世話は進んでせよ。
但し、無意味な虚栄はよせ。
人間は結局自分一人の他に頼るべきものが無いーといふ覚悟で、強い能力音ある人間になれ。
自分を鍛へて行け!聖心も肉体も鍛へて、健康にすることだ。
強くなれ。自覚ある立派な人間になれ。

四人の子供達よ。

お互いに団結し、協力せよ。

君等が立派に成長してゆくであらうことを思ひつつ、私は満足して死んでゆく。
どうか健康に幸福に生きてくれ。長生きしておくれ。

一九五四年七月二日

山本 幡男(同年8月25日、ハバロフスク強制収容所にて病没)




48 :眠い人 ◆ikaJHtf2 :02/03/13 12:33
過日放送された知ってるつもりですな。
あれは正直泣けました。

紙に出来ないから、分割してみんなが覚えて帰って、帰還したら山本さんの
家を訪ねて、その遺書の内容を口伝えで伝える話でしたね。

49 :名無し三等兵:02/03/13 13:08
ちなみに、劇団四季が「異国の丘」というタイトルで上演中の作品に
山本さんをモデルにしている役がある。
ミュージカルに拒否感がなければ見てみるとよろし。
かなり歴史認識がしっかりとした作品だ。

50 :49:02/03/13 13:12
作品はシベリア抑留について触れている。
主人公は近衛文隆(近衛首相の息子)がモデルの架空の人物。
架空の人物といってもはっきり言って境遇は近衛文隆そのもの。

ちなみに四季板にいってスレを見てると、シベリア出兵の話と混同して
勘違いしてるヴァカがいるのも泣ける話だが(w

51 :名無し三等兵:02/03/13 14:10
シベリアならなんでもごっちゃかいな……
そのうち「シベリア超特急」とかとごっちゃにされないか、心配だよぅ(w

52 :名無し三等兵:02/03/13 22:58
>>17-18
蟹工船の人たちに
見回りの駆逐艦などが大変感謝されていたのは事実
なのに
どっかの馬鹿作家は「蟹工船」なんつうものを書き
見回りのはずの駆逐艦を悪の権化のように書いた。

これこそ最低の行為では
っていうか小林多喜二ってソ連のスパイ?

53 :名無し三等兵:02/03/13 23:03
>>45
泣きました。無念さがにじみ出てくるような文章に心を打たれた。

54 :名無し三等兵:02/03/13 23:05
>>45
お母さん……か。

55 :眠い人 ◆ikaJHtf2 :02/03/13 23:11
>52
とりあえず、昭和8年特高に治安維持法違反で逮捕され、転向を拒否した
ために、拷問死してますな。
一応日共の党員だった訳で、そう言う意味ではスパイかもね。

しかし、思うのだが、彼が昭和20年まで生きていたらどう思ったのかねぇ。
矢張り、ソ連マンセーになっとったんじゃろか。

56 :名無し三等兵:02/03/13 23:13
http://www.fujinews.com/today/2000-06/20000601/0601-09.htm

「信じられないが、」スレに貼ってあったよ。
 いろんな意味で泣けてくる・・・・・・ゥゥ

57 :名無し三等兵:02/03/14 21:06
みんな貧乏がわるいんや‥

58 :名無し三等兵:02/03/14 22:19
>55
日本共産党は終戦直後進駐してきた米軍を『解放軍』と呼んでましたが何か?

59 : 俺:02/03/15 00:19
>56
「苦虫を噛み潰す」とはこの事か(w
彼らなりに頑張ったんだよ。。。

60 :シュガー:02/03/15 00:22
「蟹工船」その他のプロレタリア文学をまともに読んでもいないコヴァがほざいてるよ!
サガ、恐いよー!

61 :中¥某:02/03/15 00:43
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h12/jog165.html
人物探訪:篠崎護〜昭南島の大和心
日本軍占領下のシンガポール、粛清に怯える華僑
住民を護ろうと篠崎護は立ち上がった。

辻政信で検索してたらこんなのが出てきた。

62 :名無し三等兵:02/03/15 03:00
>>60
コヴァって何?

63 :名無し三等兵:02/03/15 06:49
>60
社会主義や共産主義が間違いとわかった現在「批判するなら読んでから」という
論法は成り立たないのでは?その論法が正しいならナチスを批判するなら我が闘争
を読まなければならないし、オウムを批判するにはオウムの教義や本を読まなければ
ならなくなる。

64 :名無し三等兵:02/03/15 06:54
>63
ナチスを批判するために「我が闘争」を読まないで批判するの?
批判対象を知るのは理性的な判断の第一歩だろうに、何を言ってるんだか。

ただ、プロレタリア文学ってのはあくまでも「共産主義流布のための文学」だから
(そうでなきゃプロレタリア文学なんて自称しない)、
その目標たる共産主義の価値が失われれば同時に無価値とされても仕方ない。

65 :63:02/03/15 07:21
>64
俺は「我が闘争」は読んだけどね、高校時代。正直面倒な本だなーと思った。

66 :名無し三等兵:02/03/15 08:15
>>63
何かを知ったり批判するために、原典にあたらなくちゃいけない
ことはない。そんなことをする必要があるのは学者。
我々は学者が書いた書籍や論文でまとめられたものを読めばいい。

そうでなければ、「教科書」なるものは存在しない。学者だって
教科書は読んでるよ。何が何でも原典以外は信用しちゃいけない、
ってわけじゃないでしょ。

67 :名無し三等兵:02/03/15 08:16
>プロレタリア文学ってのはあくまでも「共産主義流布のための文学」

ホンマ?

68 :名無し三等兵:02/03/15 08:18
>>67
常識です。

69 :名無し三等兵:02/03/15 08:40
なんら知識的なバックボーンがない素人が無理やり原典を読んだって
意味していることを正確には理解できないし、誤解・曲解して
始末の悪い粘着になるのがオチ。
すでに俺も粘着かな?失礼。

70 :名無し三等兵:02/03/15 12:48
>>44
いや、右の方にも「まあ、コリアの言うことも聞いてやるか、アコリャコリャ」
なんていい気になって
「懐柔したつもり」
になってるのんきなのがいると聞いたから。


71 :名無し三等兵:02/03/16 00:01
原典がどうであろうと現実に共産主義国家は失敗したじゃん。

72 :名無し三等兵:02/03/16 20:27
>>71
共産主義国家って存在した事があるか?
社会主義国家じゃないのか?
厨な質問でスマソ。

73 :名無し三等兵:02/03/17 15:16
民主主義国家って存在した事があるか?
資本主義国家じゃないのか?
DQNな質問でスマソ。

74 :名無し三等兵:02/03/17 16:14
>>72
共産主義国はないが、社会主義は共産主義を目指す過程の姿。
よって社会主義の失敗は共産主義の失敗でもある。

>>73
よく現代国家に民主主義国なんて存在しない、なんて言うけれど
国民が主権者であれば民主主義。それが理想の姿と違うのは
主権者の意識と責任の欠如の問題だ。

75 :73:02/03/17 17:08
>>74
ネタにマジレスカコ(・∀・)イイ!

76 :名無し三等兵:02/03/18 00:13
 社会主義というのは、19世紀前半のヨーロッパ(特にフランス)では、「社会を少しでも改善しようとする考え方の全て」を指しました。たとえば恵まれない子供たちのための募金運動とかも。
 19世紀後半になると資本主義がノシてきたんで、この資本主義の弊害部分を改善するための試みがもっぱら社会主義と呼ばれるようになりました。これにはすごく乱暴に言って3つの潮流がありました。

1)オーエン主義……労働者が組合をつくって皆で経営者と交渉することで、労働者が食えるようにしようという考え。この嫡子が労働組合であり、庶子が生協です。
(従ってアメリカ合衆国は世界で最も社会主義勢力が強い国の一つです)

2)フーリエ主義……議会に労働者の代表を送りこもうという考え。この嫡子が社会民主主義であり、庶子がマルクス主義です。

3)サン・シモン主義……社会主義者が寄り合って小さな共同体を作って暮そうという考え。この嫡子がイスラエルのキブツや日本の「新しい村」であり、庶子が無政府主義です。


77 :名無し三等兵:02/03/18 00:14
 で、共産主義という言葉は、本来は私有財産の否定(財「産」の「共」有)を意味する言葉だったですが、そのうち「社会主義のうち、私有財産の否定まで踏みこもうと考えている思想」を指すようになり、さらにそのうち、もっぱらマルクス主義を指すようになったです。

 このマルクス主義と言うのがどんなシロモノだったかというと。

 パリ・コミューンというものがありました。 フランスが戦争に負けたドサクサにまぎれて、「いろいろな」社会主義者が中心になってパリに社会主義政府を作ったですな。
 しかし「どこまで社会主義政策をやっていいか」というのを議論しているうち、軍隊に鎮圧されてしまった、と。
 これを見とったマルクスという人がおりました。ドイツ生れのヒゲ男で、よく下手くそな詩を書いたり、女性関係でモメゴトをおこしては友人のエンゲルスに尻ぬぐいをさせたりしてました。
マル「こらいかん。わしゃ昔から思うとったが、普通に社会主義政権を作ろうとしても、『何が正しいか』を議論しとるうちに軍隊にツブされるで」
エン「だったらどうするかのお」
マル「わしゃ昔から思うとったが、やっぱり『何が正しいか』は上のもんが決めてしまうことにして、秘密結社でやるしかないで」
エン「なんか軍隊か初期キリスト教会みたいじゃのお」
マル「背に腹はかえられんけえのお」
エン「いいんかのお」

 これがつまりマルクス主義でありまして、その後このマルクスさんの書いた本がむちゃくちゃな翻訳で(「ニヒト」を故意に訳し抜かしたりして)ロシヤに入りました。
 これをレーニンの兄が読みました。
 レーニン本人は兄のかたわらでツルゲーネフの恋愛小説を読んどりました。しかし兄が警察につかまって殺されると、レーニンがかわってマルクス主義をとなえはじめました。
 これがつまりマルクス・レーニン主義のおこりであります。


78 :77:02/03/18 00:15
コピペ。
泣ける話じゃなくて申し訳ない。

79 :海の人:02/03/18 01:31
>78
 いあ、こんなののせいで人類の半分が1世紀近くも奴隷のくびきに
つながれていたのかと思うと泣けてくる。


80 :スレ違いスマソ:02/03/18 09:59
>>76-77
社会主義というのは色んな流れがあって、もの凄く漠然とした概念
なのは>>76-77の通り。オーエンなんかは当初「機械を動かす時に
油をさすでしょ?労働者にもキチンとした報酬を与えてやれば、
その前よりももっと効率的な働きをして利益も実は大きくなりますよ」
なんて言って、資本家階層のなかでも天才的経営者なんて呼ばれて
もてはやされた。

そういった19世紀後半の頃の社会主義は、初期社会主義運動と
呼ばれるもので、20世紀の社会主義とは区別されるもの。

81 :スレ違いスマソ:02/03/18 10:04
>>79
ひょっとして世界史板の奴隷スレにも書いたりしてる?
ああいうのは奴隷じゃないよ。
それに、初期のソ連を見ていれば負の部分もあったにせよ、
それ以前の状態からすれば改善された階層も多かった。

現代のサラリーマンなんかも奴隷だ、なんて呼んでいる人もいるけど
いつの時代でも、より良い生活に憧れる普遍的な感情論。
マルクス主義には色々な問題がありすぎだが、当時の資本社会も
問題ありすぎ。ハレムでトイレの数を増やそう、と言っただけで
共産主義者よばわりされ、撲殺された人もいる。

82 :名無し三等兵:02/03/18 12:45
>>81
まあ奴隷、ちゅうことばの使用の適切さちゅうのは難しいの。
個人てきには 移動や職業選択や婚姻の自由があれば奴隷ではない、
ともいえるが、それ言ったらカースト制ってなんじゃいな、てなこともあるしなあ・・・ 

まあしかし悲惨自慢してもしょうがないがな。
それいうたら、ファシストだっておなじようにほめてあげなきゃ、

だいたい「ハレム」ってどこのはなしだ。
ある程度進んだ世の中でどれだけのことをなしえたか、

ちゅうところでくらべんとなあ・・・ 資本主義と社会主義(とファシズム?)

メし食ったあとのだぼらですまん。

ところで、「泣ける話がどっかにいって床屋政談で埋め尽くされつつある」
スレの現状はけっこう 泣けんるんではないか?

83 :名無し三等兵:02/03/19 11:06
>82
>81の「ハレム」って、ニューヨークの方のハーレムの事じゃないの?
後宮じゃなくて。

84 :82:02/03/19 12:39
>>83

なるほど

85 :中¥某:02/03/20 23:31
今度HP作るのですがこのスレ転載してもいいですか?

86 : :02/03/20 23:35
>>85
通報しますた

87 :美汐:02/03/20 23:37
真琴が来た。でもいつもとちがう。
わたしが仕事から帰って来ると、真琴がわたしの部屋の前に立っていた。
真琴はなにも言わなかった。だからわたしもなにも言わなかった。
わたしは黙って部屋の鍵を開けて、真琴を先に部屋に入らせる。
真琴が靴をゆっくりぬぐ。でもいつもみたいに、元気にぬぎちらかさない。
わたしは靴を脱ぎながら、奥にあがってゆく真琴の背中を見ていた。
真琴は明りをつけようともしない。自分の足許をみつめている。
わたしは真琴のあとにつき、部屋の明りを点けた。
真琴は上着も脱がずにぺたんとすわり、こたつにもぐりこむ。
わたしはコートを脱いで、それをハンガーにかけながら、はじめて口を開いた。
「ずっと待ってたの? 寒くなかった?」
「ううん」
あたりさわりのない会話。それはさぐりあいだ。
「ちょっとまっててね。ごはん、いっしょに食べていく?」
「ううん。いい。祐一が待ってるから」
いつもの会話だ。でもちがう。真琴はなにか言いたいことがある。
そして、わたしはきっと、それがなんなのか知っている。
いまの真琴はなにかを恐れている。
あの真琴が、内弁慶ではあるけれど、
根本的なところで決定的に天真爛漫なこの子が恐れるもの。
わたしにはきっとわかっている。
だからわたしはいつものようにすぐに台所には行かなかった。
わざと衣装だんすのなかの服を整えたりして、その時を待つ

88 :美汐:02/03/20 23:37
そして、長い沈黙のあとに真琴は口を開いた。
「お金をね、貸してほしいの」
「おこづかいが足りないの?」
わたしはわざとそう言った。中心をわざとはずす。真琴は首をふる。
真琴が恐れているのと同じくらいに、わたしもそれを恐れている。
わたしは真琴に背を向けて、衣装だんすを探りつづける。
「あのね、……さいきん、ずっとなかったの」
「そう」
「それでね、きょう、病院に行ってみたの」
「そう」
「……3か月だって、言われたの」
わたしは目をつむった。ああ。ああ。神さま。
それは結婚生活の、健康な男女がひとつ屋根の下で、
合意のもとに暮らすことの当然の帰結。そして。
「そう。おめでとう」
わたしはやっと振り返って真琴を見下ろした。真琴はうつむいたままだけど。
「それでね、おろそうと思うの」
わたしはいま崖っぷちにいる。
「祐一にはないしょなの」
一歩も引くことはできない。
「だから、みしおにお金を貸して欲しいの」
ずっと考えていた。
「祐一はきっと反対するから。だからみしおに」
真琴が相沢さんと結婚をすることになったあの日から。
「この子供は、おろさなきゃいけないの」
この日が来ることを。たとえ妄想じみていても。
「生まれてきちゃ、いけない子なの」
ひとりでくりかえしてきたリハーサル。このときのためだ。
「だから、おねがい、みしお」
真琴はてのひらに顔をうずめた。
「わたしをたすけて……」
わたしはゆっくりと、自分を落ち着かせるために心のなかでみっつ数えた。
うまくいくかわからないけど。みんながしあわせになるために。


つづく

89 :名無し三等兵:02/03/20 23:39
>>85
勝手にしろや

90 :超先生:02/03/20 23:46
         ∧_∧
      < `∀´>    >>87
     _¢___⊂)     む、誤爆かね? 
    /旦/三/./|    共に葉鍵板に帰ろうではないか。
   | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|  |    私としては軍事板にRRを是非とも定着させたいが。
   |超誰彼発売|/


91 :名無し三等兵:02/03/20 23:49
>>90
……超先生、口が違う?

92 :中¥某:02/03/20 23:52
サンクス。
まあ恥じないようにしますわ。

93 :名無し三等兵:02/03/20 23:53
>>87-88
どうでもいいが、続きをはよコピペしろ

94 :超先生:02/03/20 23:54
         ∧_∧
      < `ш´>    本来ならばこっちの口なのだろうが。
     _¢___⊂)    あいにく私は「∀」の方が気に入っていてね。
    /旦/三/./|   だが軍事板ではニダに良く間違えられてしまうのが
   | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|  |   哀しいところだが。
   |阿鼻様沈没|/


95 :名無し三等兵:02/03/20 23:59
>>94
つーか∀じゃあニダーその物ですぜ先生・・・

96 :超先生:02/03/21 00:02
         ∧_∧
      < `ш´>  そうか、では軍事板ではこちらに統一しよう。  
     _¢___⊂)   
    /旦/三/./|   
   | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|  |   
   |阿鼻様沈没|/

97 :名無し三等兵:02/03/21 00:14
昔読んだ話。細部は自信がないが概要ね。どちらかというと感動したはなしかな?

終戦直後GHQは日本のトラック生産を禁じていた。
曰く、トラックは軍用に転用が可能で、非武装であるべき日本は
生産してならない。

日本の運輸担当のある官僚は産業の復興にはトラックが必要であると
考え、GHQ担当者の所へ交渉に行った。

両者の主張は平行線をたどり、交渉は決裂するかに見えた。
そのとき官僚はそばにあったペンをつかみ自分の手の甲に刺した。
官僚は言った。「ペンだってこのように武器にもなれば本来の機能も果たす」
官僚はペンを抜いて紙に何かを書き始めた。その紙にはこう書かれていた。
Sorry, I want peace.

官僚の心に動かされた担当者は規制の再検討を約束し、後日その約束は果たされた。
マッカーサーは後にこう語ったという。
「敗戦国日本には、まだすごい男がいる」と。

98 :うううう・・:02/03/21 00:23
>>97
心泣き・・・

99 :中¥某:02/03/21 01:12
http://www.nichimapress.com/others/pianoatseremban.html
少し感動した!!!

100 :名無し三等兵:02/03/21 01:25
>>87-88
続き〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!

101 :名無し三等兵:02/03/21 03:19
>>87-88
敢えて言わせてもらう 板違いだ・・・
たのむから このスレから去ってくれ・・
ここはそういう話を披露する場所じゃない

102 :お茶っぴき:02/03/21 14:26
>>97

昔の官僚の中には、真に国を思うあまり、
敵役となる者も(何百人あるいは何十人か)居た。

今の官僚の中には、そういった人間は
両手で数えられる位(あるいはそれ以下)しかいないのでは?



103 : ◆/YVWSo56 :02/03/21 21:07
「自衛隊に誇りを 志方俊之著」小学館より

「最近でも、埼玉県の入間基地の近くで航空自衛隊のジェット機が河原に墜落した事がある。
 あの飛行機を操縦していたパイロットは、あの後二階級特進して国から表彰をもらっている。
 というのも、彼はそれまで三〇〇〇時間も飛行時間があるベテランパイロットで、
 自分が助かろうと思えばいくらでも助かる事が出来たにもかかわらず、
 飛行機の墜落で絶対に一般人を傷つけてはいけないと
 安全な河原まで飛行機を飛ばし続けたのである。
 そのため、飛行機の高度が低くなりすぎ、脱出できずに亡くなった。
 つまり、彼は一般人を巻き添えにしないために、自らの命を犠牲にしたのだ。」


104 :フンガ――――――!!!:02/03/21 21:53
>>87-88
アフォかあああああああああああああああああ!!!!!!1
だから続きを見せろってんだろ糞カス野郎!!!!!!!
うあああああああああああああああ

105 :名無し三等兵:02/03/21 22:24
>>87-88
KanonのPS2版がでたせいか?

106 :名無し三等兵:02/03/22 21:34

 目覚めたら、堅いベッドの上だった。
 起き上がろうとするが、ずきずきと頭が痛む。
 何故?
 お母さんが退院したので、お祝いをしようと皆で集まっていた
ことは覚えている。
 頭の痛みを堪えながらなんとか上体を起こし、周囲を確認する。
 薄暗い部屋。コンクリートの打ちっぱなしで、部屋の中には
作り付けの堅いベッドだけ。扉は見たことも無いような鉄製だった。
両隣に倒れているのは香里と北川君だろう。
そのむこうに、祐一が黙ってこちらを見ていた。
「祐一・・・ここはどこ?」
問い掛けてみたが、祐一の返事はない。
「祐一ぃ〜〜なにがあったのか説明してよ〜」
祐一は黙っている。
「……祐一!」
「名雪」
祐一が、やっと口を開いた。
「名雪、お前は売り飛ばされたんだ。この傭兵部隊にな。」


つづく


107 :名無し三等兵:02/03/22 21:42
もう薬が切れたのか?

108 :みずくん:02/03/24 02:56
すばらしいスレを発見し、徹夜で読んで号泣しました。
更に今晩もこの様な時間となってしまいました。
ここしばらくの書き込みはいささか場違いのものも含まれて残念です。

ご存じの方も大勢いらっしゃるでしょうが
日経「私の履歴書」に中曽根康弘元首相が書かれた話で、記憶に頼っているため
詳細は後ほど書き込もうかと存じますが以下のような話があります。

中曽根氏が海軍主計士官として南方に航空基地を建設する事になった時、彼が
指揮したのは鉄火肌の集団であった。この集団を統率するため、集団のボス的
性格の男にこう話した。「おれは士官ではあるが生まれは上州、国定忠治の親戚みたいな
ものだ。今回おまえらを仕切るような事になったが、一つ宜しく頼む。」
こうして基地建設は成功し、くだんのボスとは義兄弟の様になったが残念ながら
彼の人は戦死なさったとのこと。

以上の話は上でも述べたとおりあやふやな記憶に頼ったものですが、記事を読んだ
当時の私は感動しました。

中曽根氏をこの場に挙げましたが、他意はありません。
ここで彼個人の事を議論するつもりは毛頭ございませんので念のため。

109 :名無し三等兵:02/03/24 19:54
>>106
だから続きを書けってんだよアフォオオオオオオオオオオオオオオオオ
違う奴見せんじゃねえええええええええええええ
ボケェエエエエエエエエエエエエエエエエエエエ

110 :名無し三等兵:02/03/24 23:46
>109
葉鍵板にカエレ!
http://wow.bbspink.com/leaf/

因みに俺のお気に入りはここ。
http://members.tripod.co.jp/mio_2ch/

111 :名無し三等兵:02/03/25 21:08
軍事板って本当に鍵っ子多いね。

112 :名無し三等兵:02/03/25 21:27
それは違う。ヤツらはどこにでもいる。

113 :名無し三等兵:02/03/26 11:49
日の丸を元にしたパラオの国旗
パラオの国旗は,どうして日の丸とデザインが似ているのか.それには深いわけがある.パラオはドイツの植民地だったが,第一次大戦下,
この地域の戦争でドイツに勝った日本は,戦後,国際連盟からパラオを含むミクロネシア地域を委任統治することを求められた.日本はたく
さんの移民をこの地に送り,産業,教育,文化の発展に大きな功績を残した.第二次世界大戦後,この地域を占領したアメリカは,日本文化
の影響を徹底的に破壊した.南洋神社は取りつぶされた.校庭の二宮金次郎の銅像は引きずり降ろされた.
しかし,パラオ人は,心の中では勤勉の精神を教えてくれた日本人を敬い,日本統治時代を懐かしんでいる.その証拠にパラオ人の8割は,
その姓名のどちらかに,日本式の名前を付けているといわれる.私がお目にかかったれっきとしたパラオ人の上院議員のなかに,ウメタロウ
さんという方がいる.私は最初,この名前を,姓名の「名」のほう,つまりファースト・ネームだろうと思っていた.実際は,この方はスティーブ・
ウメタロウさんという.ウメタロウは,この方の「姓」だったのである.おそらく,身近にウメタロウという名前の尊敬すべき日本人がいたに違いない.
1994年,パラオはアメリカから独立した.独立にあたり国旗を制定することになり,国民の間から一般公募した結果,日の丸をもじった今のデザ
インに決まったというわけである.ただし,パラオの国旗の満月は,日の丸の旗の太陽とは違って,中心から少しズレている.日本に失礼だからと,
わざと中心をはずしたのだそうだ.これはパラオの人たちの慎み深い態度をよく表している.
パラオの国旗は,日の丸は侵略のシンボルなどではないこと,かつて日本の統治下にあった国で,日本の日の丸を模した国旗がつくられるほど,
戦前の日本と日本人はアジアの人たちから尊敬されていたことを教える実物教材である.

http://www.geocities.co.jp/WallStreet/4759/20010503.html

114 :名無し三等兵:02/03/26 12:08
日本人誇りの日

  2002年1月11日は日本人にとって忘れられない日になった。
所は南洋の国パラオ共和国、時、午前10時。教会合唱隊が大声で行進曲調のパラオ共和国の国歌を合唱し始めると、
夜の大海原に浮かぶ月をあしらった青地に黄色い○印の国旗が掲揚された。
続いて荘厳な「君が代」のメロディーが流れはじめると観客の中に静かな動揺がおこった。
伴奏だけで歌が無いからだ。すると突然隣の席の妻眞理子が声高らかに歌いだした。
「君がーよーおーはー」。思わず私も従った。すると私たちの後方にいた、
もう八十を超えたリケリケさんが「千代にーいー八千代にさざれー、、、」と歌いだした。
リケリケさんは日本軍へ志願して米軍と戦った「斬込隊」の生き残りだ。背中に軍刀を
背負い米軍機に見つからないように夜の海を島伝いに激戦地ぺリリュー島へたどり着き
米軍に斬り込みをかけようとしたのであった。正に日本のために命を張ってくれたパラオ人特攻隊員である。
私が彼の声の方へ振り向いて感謝の会釈をすると、直立不動のまま「、、、苔のむーーすーーまーーーで」
と声を一段と高めた。演奏は終わり、私たちの周りだけであったが君が代の斉唱が終わると、
周りから大きな拍手と歓声か起こった。大空に輝く太陽の「日の丸」と、深夜の大海原に浮かぶお月様の
パラオの国旗がへんぽんとたなびく中でトミー・レメンゲソウ、パラオ共和国大統領の祝辞が始まった。

http://www.luvnet.com/~sunraworld2/jiji-chokugen/jiji_151.htm


115 :名無し三等兵:02/03/26 12:12
7 :バーチャバカ一代 ◆3iCOYKds :02/02/24 21:39 ID:YQKmSjL8
ウズベキスタン
 ウズベキスタンでは(日本人)抑留者の方々のうち約千人が、ナボイ劇場という国立劇場の建設に従事させられた。
 しかし、その日本の抑留者たちは、実に勤勉で、ていねいな仕事をするため、ウズベク人を驚かせたのだ。
 当時の建設状況を記録映画にしていたカユモフ監督は、
「捕虜なのに何故あんなに真面目に働くのだろう。しかも、高い危険な場所に登って亡くなった人もいたんです」といまもその感銘は忘れないという。
 その後、タシケントでは2度の大地震に見舞われ、多くの建物が崩壊したが、ナボイ劇場だけはビクともしなかった。
 このため一層、日本人の仕事ぶりに感心し、そんなこともあってタシケントの人々は、
 その地で亡くなった抑留者のお墓を作って霊を慰めたのである。


116 :名無し三等兵:02/03/26 12:16
■ 「バャ・コン・ディオス (神とともに行け) 」杉原千畝の言葉 ■
 
 1939年(昭和十四年)九月一日、ヨーロッパではヒットラー率いるナチス・ドイツがポーラン
ドへ侵攻し、第二次世界大戦の火ぶたが切られた。
 同年十一月、リトアニアの首都カウナスの日本領事館に、領事代理としてソ連専門の外交官
であった杉原千畝が赴任して来ました。 
  
 次の年には、ナチス・ドイツのユダヤ人迫害は周辺諸国では周知の事実であったが、アメリカ
は移民法に拘束されビザ発給には極めて消極的だった。また、イギリス・ソ連も含めヨーロッパ
諸国がユダヤ人に冷たかったのである。

 日本政府としては昭和十三年十二月、五相会議が開かれた『猶太人対策要領』が決まっており、
ユダヤ人に対しても他の外国人同様、基本的には差別しないということが決まっていた。
 これは「八紘一宇」の国是のもと、日本は一貫してユダヤ人に対して差別をしないことを明らか
にしていた。

 リトアニアがソ連に併合されて以来、日本領事館の外にはユダヤ人難民から陳情を山ほど受け
ており、ここ何日も難民が押しかけてきた。日本としては、領事館を八月末までに閉鎖することに
なっているため杉原にできることは、時間的にも限られていることを知っていた。

 しかし、外務省からの訓令では無条件ビザ発行には「ノー」であり上層部の指示にそむいて行動
するわけにいかなっかた。彼は、ビザ発給について悩み苦しんだ。
 
 たくさんの人間の生死がかかっていた。


117 :名無し三等兵:02/03/26 12:16
八月一日の早朝、杉原は日本領事館の外へ出て、彼は大声で叫んだ。
 「みなさま方に、日本の通過ビザを発行することになりました」

 外では、大きなどよめきが起こり、抱き合う人達もいました。


 当時少年だったソリー・ガノールさんは、「日本人に救われたユダヤ人の手記」の中で杉原の言葉
をこう書いている。


 帰り際、杉原領事と私は握手した。そして彼はひとこと、

 「バャ・コン・ディオス (神とともに行け) 」 と言った。
 当時のソリー・ガノールさんは、杉原がスペイン語の別れのあいさつを口にしたため意味がわから
なかった。しかし、心のこもったこの言葉は、彼の中に深い感動を思い起こす。
 

 杉原は八月二八日まで、ビザを出し続けた。外務省からは 「カウナスの領事館を閉鎖し、ただちに
ベルリンへ行け」 という至急電報が届いたため、杉原はビザ発行を打ち切るほかなく、引き上げを決
意しました。 

 杉原幸子夫人の著書「六千人の命のビザ」の中で、当時の状況をこう書いている。

 領事館を出て車の窓から見ると、数人の人達が茫然と佇んで私達を見ている光景は忘れることが
出来ませんでした。
 
 「許してください。できるだけのことはしました」
 心の中でその人影に詫びながら、私の目には涙が溢れてきました。


118 :名無し三等兵:02/03/26 12:16
九月一日の早朝、カウナス駅でベルリン国際列車を待っている時にも、ビザを求めて何人かの人が
来ていました。
 汽車が走り出すまで、窓から身を乗り出して杉原は許可書を書き続けた。しかし、汽車が走り出し彼
はもう書くことができなかった。
 
 「私はもう書けない、許してください。みなさんのご無事を祈っています」

 杉原は苦しそうに言うと、ホームに立つユダヤ人たちに深々とあたまを下げました。

 列車と並んで泣きながら走ってきた人が、
 「スギハラー。私たちはあなたを忘れません。もう一度あなたにお会いします」と 私達の姿が見えな
くなるまで何度も叫び続けていました。


 昭和二十二年四月、杉原と家族は日本の土を再び踏むことができた。それから三ヵ月ほどした頃、
外務省から手紙で出省するようにと通知があった。外務省から、戻ってきた杉原は顔が暗く沈んでい
た。心配した、幸子夫人が尋ねると彼は

 「ああ、外務次官の岡崎さんに呼ばれて『君のポストはもうないのです。退職して頂きたい』と言われた」 
と答えると、黙り込んでしまった。

 杉原はビザ発行の時、訓令違反にあたるため覚悟の上での行動だったが、やはりこの仕打ちにはが
っかりした様子だった。

 しかし、あれから二十八年も経った、昭和四十三年八月、突然イスラエル大使館から電話があり、杉
原は呼ばれ出かけました。
 そこには、カウナスでビザを発行した中の一人でニシュリという人が、大使館の参事官として赴任して
きました。彼は一枚のボロボロになった紙を見せて「これを覚えていますか」と杉原に聞いたそうです。
 それは当時、杉原が発行したビザが握られていた。そのビザにより、無事脱出したユダヤ人たちは、
戦後、杉原の行方へを探し続けていたのだと聞かされた。ニシュリ氏は幸子夫人の顔を見るなり、手を
取り固く握って涙を流し喜んだ。


119 :名無し三等兵:02/03/26 12:17
そして、昭和六十年(1985年)1月、イスラエルの外務大臣、イサク・シャミ−ルが来日し、東京のユ
ダヤ人協会センターで歓迎会が開かれた。その席には、杉原千畝は賞を受賞すべく招待されていた。

 そこでは 〔諸国民の中の正義の人賞(ヤド・バシェム賞)〕 が杉原千畝に授与されました。この賞はイ
スラエル建国に尽くした外国人に与える勲章で、日本人としては初めてだった。その年の十一月に、イス
ラエルのエルサレムの丘に、杉原の顕賞碑が建てられました。杉原は病気のために、出席できずイス
ラエルのヘブライ大学に留学していた四男の伸生が代理で出席しました。

 杉原はその様子を手紙で知った。

 「今日は僕にとって一番美しい日でした。澄んだ青い空に日の丸とダビデの星(イスラエルの国旗)が掲
げられ、杉原林苑の植樹祭はエルサレム郊外のベイトシュウメッシュで行われた。
・・・(中略)・・・この丘はイスラエル独立戦争で一番戦いが激しかった拠点で、イスラエル兵が多く命を落
とした所です。そこに集まったユダヤ人は約七十人から九十人だと思いますが、ひとりひとりやって来て 
  “私たち夫婦は杉原さんに救われ、孫はもう三十人います”  “リトアニアでのユダヤ人は本当に悲惨
でした”  ある金髪の美しい老婦人は  “私は日本領事館の塀の外で待っていた唯一の女性だったが、
あなたのお父さんが 「大変ですから査証は明日までに作っておきますので帰って休んでなさい」 と言って
くれ本当に紳士だと思いました” “あの時のビザは大事にもっています”
 
 握手する手も休めない程で、皆、本当に心から感謝をしている目を見ると、僕はこんなに立派な両親を持
って幸せだとあらためて思いました。


120 :名無し三等兵:02/03/26 12:17
(中略)

   GOLDEN JERUSALEM 黄金のエルサレムと言われるように。                伸生

 昭和六十一年七月三十一日に、杉原千畝は八十一歳でひっそりと息を引き取った。彼はマスコミの前
でこう話した事がある。

 「私のしたことは外交官としては間違ったことだったかもしれない。しかし、私には頼ってきた何千人もの
人を見殺しにすることはできなかった。そして、それは正しい行動だった・・・」
「私の行為は歴史が審判してくれるだろう」

 杉原千畝の行動により、ロシアを経由して満州〜神戸についたユダヤ人たちを、多くの日本人が暖かく
迎えたという事実が日本国の歴史にある。
 私たちが、学校で子供たちに戦争の悲惨さばかりを教えるのではなく日本人にも尊い命を救った人物が
いたことを、大きな歴史の視点から教えていくべきだろう。

参考文献
 「杉原千畝と外務省」杉原誠四郎/大正出版
 「教科書が教えない歴史」藤岡信勝/自由主義史観研究会・扶桑社
 「6千人の命のビザ」杉原幸子/朝日ソノラマ
 「日本人に救われたユダヤ人の手記」ソリー・ガノール/講談社

 (文 加藤 光治)


121 :名無し三等兵:02/03/26 12:21
81 :コロネル・シバ :02/02/26 22:25 ID:4/5a+OCu
 ちょうど100年前の1902(明治35)年1月30日、日英
同盟が成立した。同盟締結を推進したのは、駐日公使マグドナ
ルドであった。マグドナルドは前年夏の賜暇休暇にロンドンに
帰るとソールズベリー首相と何度も会見し、7月15日には日
本公使館に林菫公使を訪ねて、日英同盟の構想を述べ、日本側
の意向を打診した。マグドナルドは翌日も林公使を訪問して、
イギリス側の熱意を示した。それからわずか半年後には異例の
スピードで同盟締結の運びとなった。

 イギリスが日本と結んだのは、ロシアの極東進出を防ぐとい
う点で利害が一致したからである。しかし、当時の超大国イギ
リスがその長年の伝統である「光栄ある孤立」政策をわずか半
年で一大転換し、なおかつその相手がアジアの非白人小国・日
本であるとは、いかにも思い切った決断である。その背景には
マグドナルド公使自身が一年前に経験した一大事件があった。

 1985(明治28)年、日清戦争に敗北して、清国が「眠れる
獅子」ではなく「眠れる豚」であることを露呈するや否や、列
強は飢えた狼のようにその肉に食らいついていった。三国干渉
により日本に遼東半島を返還させると、それをロシアがとりあ
げ、同時にドイツは膠州湾と青島、フランスは広州湾をむしり
とる。イギリスは日本が日清戦争後にまだ保障占領していた威
海衛を受け取り、さらにフランスとの均衡のためと主張して香
港島対岸の九龍をとった。

 こうした情況に民衆の不満は高まり、義和団と称する拳法の
結社があらわれた。呪文を念じて拳を行えば、刀槍によっても
傷つくことはない、と信じ、「扶清滅洋(清国を助け、西洋を
滅ぼせ)」をスローガンとして、外国人やシナ人キリスト教徒
を襲うようになっていった。

122 :名無し三等兵:02/03/26 12:21
82 :コロネル・シバ :02/02/26 22:26 ID:4/5a+OCu
 5月28日、義和団の暴徒が北京南西8キロにある張辛店駅
を襲って、火を放ち、電信設備を破壊した。北京在住の列強外
交団は、清国政府に暴徒鎮圧の要求を出す一方、天津の外港に
停泊する列国の軍艦から、混成の海軍陸戦隊400名あまりを
北京に呼び寄せた。日本も軍艦愛宕からの25名の将兵が参加
した。今風に言えば多国籍軍である。

 6月4日、北京?天津間の鉄道が、義和団によって破壊され
た。北京の外交団は万一の場合の脱出路を奪われた形となった。
すぐに2千の第2次混成部隊が出発したが、鉄道の修復に時間
がかかり、いつ北京にたどり着けるか、分からない状態だった。

 北京の公使館地域は東西約9百メートル、南北約8百メート
ルの方形であり、ここに欧米10カ国と日本の公使館があった。
6月7日、各国の公使館付き武官と陸戦隊の指揮官がイギリス
公使館に集まって、具体的な防衛計画が話し合われた。

 日本の代表は、この4月に赴任したばかりの柴五郎中佐であ
った。柴は英仏語に堪能で、また地域の詳細な防御計画も持参
していたが、始めのうちは各国代表の議論を黙って聴いていた。
日本の兵力が少ないこともあったが、まずは各国の人物、能力
を見極めようという腹だった。さらに東洋人がいきなり議論を
リードしては欧米人の反発を招くということも十分に心得てい
た。

 柴は会議の流れを掴むと、目立たない形で、自分の計画に合
う意見については「セ・シ・ボン(結構ですな)」と賛意を示
し、また防御計画の要については、ちょっとヒントを与えると、
別の列席者がさも自分の発案であるかのように提案する、とい
う形で、巧みに議論を誘導して、自分の案に近い結論に持って
いった。

123 :名無し三等兵:02/03/26 12:21
83 :コロネル・シバ :02/02/26 22:27 ID:4/5a+OCu
 6月11日、日本公使館の杉山書記生が惨殺された。救援部
隊が来ないかと北京城外に出て、戻ろうとした所を清国の警備
部隊に捕まり、心臓を抉り抜かれ、その心臓は部隊長に献上さ
れた。外交団は治安維持の頼みとしていた清国官憲までも外国
人襲撃に加わったことに衝撃を受けた。

 13日、公使館区域に4,5百人の義和団が襲いかかった。
おおぜいたむろしている清国官兵は、見て見ぬふりをしている。
しかし刀や槍を振り回す暴徒は、列国将兵の銃撃に撃退された。
14日、怒った暴徒は、公使館区域に隣接するシナ人キリスト
教民の地域を襲った。凄まじい男たちの怒号と、女子どもの悲
鳴が公使館区域まで聞こえてきた。一晩で惨殺された教民は千
人を数えた。

 15日、タイムズの特派員G・モリソンはイギリス公使マグ
ドナルドを説き、20名の英兵を率いて5百人余りの教民を救
出してきた。しかし、それだけの人数を収容する場所がない。
困ったモリソンが、シナ事情に詳しそうな柴中佐に相談すると、
柴は即座に公使館地域の中央北側にある5千坪もの粛親王府を
提案した。粛親王は開明派で、日本の近代化政策を評価してい
た。柴が事情を話してかけあうと、教民収容を快諾した。

 この王府は小高くなっており、ここを奪われれば、公使館地
域全体を見下ろす形で制圧されてしまう。この事に気づいてい
た柴は教民たちを動員して保塁を築き始めた。欧米人と違って、
日本人の多くはシナ語を話せたため、彼らは日本兵によくなつ
き、熱心に協力した。また30名ほどの義勇兵も出て、日本軍
と共に自衛に立ち上がった。

124 :名無し三等兵:02/03/26 12:22
84 :コロネル・シバ :02/02/26 22:28 ID:4/5a+OCu
 6月19日、シナ政府から24時間以内に外国人全員の北京
退去を命ずる通牒があった。抗議に赴いたドイツ大使は清国兵
にいきなり銃撃され、即死した。

 20日午後からは、地域の警備についていた清国軍が公然と
攻撃を始めた。暴徒とは異なり近代装備を持つ清国軍は大砲ま
で持ち出して、公使館区域を砲撃した。

 最初の2日間の戦いで区域の東北端に位置するオーストリー
とベルギーの公使館が火を放たれて、焼かれた。西正面と北正
面を受け持っていたイギリス兵は、イギリス公使館が西から攻
撃を受けると、そちらに移動してしまった。

 北正面ががらあきとなり、清国軍が侵入するには絶好の隙間
が生じてしまった。少数の日本将兵と教民たちがたてこもる北
辺の粛親王府が破られれば、そこから清国軍は区域全体を見下
ろし、砲撃することができる。清国軍は激しい攻撃を加えてき
た。

 区域全体の総指揮官に推されたイギリス公使マグドナルドは、
粛親王府の守備を固めるために、イタリア、フランス、オース
トリー、ドイツの兵に柴中佐の指揮下に入るよう命じたが、兵
達は土地は広く、建物は迷路のように錯綜する王府を見ると、
「とてもじゃないが守りきれない」とそれぞれ自国の公使団保
護に帰ってしまった。

125 :名無し三等兵:02/03/26 12:22
85 :コロネル・シバ :02/02/26 22:30 ID:4/5a+OCu
 王府防衛の有様を柴中佐の指揮下に留まっていたイギリス人
義勇兵の一人B・シンプソンは次のように日記に記した。

 数十人の義勇兵を補佐として持っただけの小勢の日本軍
は、王府の高い壁の守備にあたっていた。その壁はどこま
でも延々とつづき、それを守るには少なくとも5百名の兵
を必要とした。しかし、日本軍は素晴らしい指揮官に恵ま
れていた。公使館付き武官のリュウトナン・コロネル・シ
バ(柴中佐)である。・・・

 この小男は、いつの間にか混乱を秩序へとまとめていた。
彼は部下たちを組織し、さらに大勢の教民たちを召集して、
前線を強化していた。実のところ、彼はなすべきことをす
べてやっていた。ぼくは、自分がすでにこの小男に傾倒し
ていることを感じる

 この後、王府を守る柴中佐以下の奮戦は、8月13日に天津
からの救援軍が北京に着くまで、2ヶ月余り続く。睡眠時間は
3,4時間。大砲で壁に穴をあけて侵入してくる敵兵を撃退す
るという戦いが繰り返し行われた。総指揮官マグドナルド公使
は、最激戦地で戦う柴への信頼を日ごとに増していった。イタ
リア大使館が焼け落ちた後のイタリア将兵27名や、イギリス
人義勇兵を柴の指揮下につけるなど迅速的確な支援を行った。

126 :名無し三等兵:02/03/26 12:22
86 :コロネル・シバ :02/02/26 22:31 ID:4/5a+OCu
 6月27日には、夜明けと共に王府に対する熾烈な一斉攻撃
が行われた。多勢の清国兵は惜しみなく弾丸を撃ちかけてくる。
弾薬に乏しい籠城軍は、一発必中で応戦しなければならない。
午後3時頃、ついに大砲で壁に穴を明けて、敵兵が喊声を上げ
ながら北の霊殿に突入してきた。柴は敵兵が充満するのを待っ
てから、内壁にあけておいた銃眼から一斉射撃をした。敵は2
0余の死体を遺棄したまま、入ってきた穴から逃げていった。
この戦果は籠城者の間にたちまち知れ渡って、全軍の志気を大
いに鼓舞した。

 イギリス公使館の書記生ランスロット・ジャイルズは、次の
ように記している。

 王府への攻撃があまりにも激しいので、夜明け前から援
軍が送られた。王府で指揮をとっているのは、日本の柴中
佐である。・・・

 日本兵が最も優秀であることは確かだし、ここにいる士
官の中では柴中佐が最優秀と見なされている。日本兵の勇
気と大胆さは驚くべきものだ。わがイギリス水兵がこれに
つづく。しかし日本兵がずば抜けて一番だと思う。

127 :名無し三等兵:02/03/26 12:23
87 :コロネル・シバ :02/02/26 22:32 ID:4/5a+OCu
 王府を守りながらも、柴中佐と日本の将兵は他の戦線でも頼
りにされるようになっていった。アメリカが守っている保塁が
激しい砲撃を受けた時、応援にかけつけたドイツ、イギリス兵
との間で、いっそ突撃して大砲を奪ってはどうか、という作戦
が提案され、激しい議論になった。そこで柴中佐の意見を聞こ
うということになり、呼び出された柴が、成功の公算はあるが、
今は我が方の犠牲を最小にすべき時と判断を下すと、もめてい
た軍議はすぐにまとまった。

 イギリス公使館の正面の壁に穴があけられ、数百の清国兵が
乱入した時は、柴中佐は安藤大尉以下8名を救援に向かわせた。
最も広壮なイギリス公使館には各国の婦女子や負傷者が収容さ
れていたのである。

 安藤大尉は、サーベルを振りかざして清国兵に斬りかかり、
たちまち数名を切り伏せた。つづく日本兵も次々に敵兵を突き
刺すと、清国兵は浮き足立ち、われさきにと壁の外に逃げ出し
た。館内の敵を一掃すると、今度はイギリス兵が出撃して、3
0余名の敵を倒した。安藤大尉らの奮戦は、イギリス公使館に
避難していた人々の目の前で行われたため、日本兵の勇敢さは
讃歎の的となり、のちのちまで一同の語りぐさとなった。

128 :名無し三等兵:02/03/26 12:23
89 :コロネル・シバ :02/02/26 22:33 ID:4/5a+OCu
 後に体験者の日記を発掘して「北京籠城」という本をまとめ
上げたピーター・フレミングは本の中でこう記述している。

 戦略上の最重要地点である王府では、日本兵が守備のバ
ックボーンであり、頭脳であった。・・・ 日本軍を指揮
した柴中佐は、籠城中のどの士官よりも勇敢で経験もあっ
たばかりか、誰からも好かれ、尊敬された。

 当時、日本人とつきあう欧米人はほとんどいなかったが、
この籠城をつうじてそれが変わった。日本人の姿が模範生
として、みなの目に映るようになった。

 日本人の勇気、信頼性、そして明朗さは、籠城者一同の
賞賛の的となった。籠城に関する数多い記録の中で、直接
的にも間接的にも、一言の非難も浴びていないのは、日本
人だけである。

129 :名無し三等兵:02/03/26 12:23
90 :コロネル・シバ :02/02/26 22:36 ID:4/5a+OCu
 救援の連合軍が、清国軍や義和団と戦いながら、ついに北京
にたどりついたのは、8月13日のことだった。総勢1万6千
の半ばを日本から駆けつけた第5師団が占めていた。その他、
ロシア3千、英米が各2千、フランス8百などである。籠城し
ていた柴中佐以下は、ほとんど弾薬も尽きた状態だった。

 14日、西太后の一行は西安に向けて脱出した。その午後、
北京入城後最初の列国指揮官会議が開かれた。冒頭マグドナル
ド公使が、籠城の経過について報告した。武器、食糧の窮迫、
守兵の不足、将兵の勇敢さと不屈の意志、不眠不休の戦い、そ
して公使は最後にこう付け加えた。

 北京籠城の功績の半ばは、とくに勇敢な日本将兵に帰す
べきものである。

 柴中佐が日本軍将兵と日本人義勇兵にこの言葉を伝えると、
嗚咽の声が漏れた。誰もが祖国の名誉を守り、欧米の人々から
も認められた誇らしい感情を味わっていた。

 柴中佐はその後も日本軍占領地域では連合軍兵士による略奪
を一切許さず、その治安の良さは市民の間のみならず、連合軍
の間でも評判となった。

 柴中佐には欧米各国からも勲章授与が相継ぎ、またタイムズ
の記者モリソンの報道もあいまってコロネル・シバは欧米で広
く知られる最初の日本人となった。その後、総指揮官を務めた
マグドナルドは駐日大使に転じ、日英同盟の締結を強力に押し
進めていくことになる。柴中佐と日本将兵の見せた奮戦ぶりか
ら、日本こそは大英帝国が頼みにするに足る国と確信したので
あろう。

130 :名無し三等兵:02/03/26 21:05
日本マンセー太郎の連続コピペ、ウゼエ。

131 :名無し三等兵:02/03/26 21:09
>>130 だったら上げるな,ヴォケ!!
sageでやってるだけオマエよりマシだ,ヴァカ!!

132 :名無し三等兵:02/03/26 23:07
アフォか。荒れてんじゃねーYo!

133 :名無し三等兵:02/03/27 13:05
ちゃんころ登場

134 :名無し三等兵:02/03/27 14:55
>>131
どうでも良いけど、コピペするなら元スレURLもつけといてくれ

135 :眠い人 ◆ikaJHtf2 :02/03/28 01:11
アメリカ合衆国戦略爆撃調査団報告書より抜粋。

「要するに日本という国は本質的には小国で、輸入原料に依存する産業構造を
 持てる貧弱な国であって、あらゆる型の近代的攻撃に対して無防備だった。
 手から口への、全くその日暮らしの日本経済には余力というものが無く、緊急
 事態に対する術がなかった…その経済は合衆国の半分の強さを持つ敵との
 長期戦であっても、支えることが出来なかったのである。」

136 :名無し三等兵:02/03/28 20:59
うむぅ、反論し難いだけに泣けるなあ…

137 :名無し三等兵:02/03/28 22:58
>133
君みたいなのが同じ日本人なのが泣ける

138 :ルガー大好き:02/03/31 15:03
昭和20年8月14日の御前会議での昭和天皇の御言葉
「反対論の趣旨はよく聞いたが、私の考えはこの前言ったことに変わりはない。
私は、国内の事情と世界の現状を充分考えて、これ以上戦争を継続することは
無理と考える。
国体問題についていろいろ危惧もあるということであるが、先方の回答文は悪意を
持って書かれた物とは思えないし、要は国民全体の信念と覚悟の問題であると
思うから、この際先方の回答を、そのまま、受諾してよろしいと考える。
陸海軍の将兵にとって、武装解除や保障占領ということは堪えがたいことである
ことも良くわかる。
国民が玉砕して君国に殉ぜんとする心持も良くわかるが、しかし、私自身はいかに
なろうとも、私は国民の生命を助けたいと思う。
この上戦争を続けては、結局我が国が全く焦土となり、国民にこれ以上苦痛を
なめさせることは、私として忍びない。
この際和平の手段にでても、もとより先方のやり方に全幅の信頼をおき難いことは
当然であるが、日本が全くなくなるという結果に比べて、少しでも種子が残りさえ
すれば、さらにまた復興という光明も考えられる。
私は、明治天皇が三国干渉のときの苦しい御心持ちをしのび、堪えがたきを堪え、
忍びがたきを忍び、将来の回復に期待したいと思う。
これからは日本は平和な国として再建するのであるが、これはむずかしいことで
あり、また時も長くかかることと思うが、国民が心を合わせ、協力一致して努力
すれば、必ずできると思う。私も国民とともに努力する。
今日まで戦場にあって、戦死し、あるいは、内地にいて非命にたおれたものや
その遺族のことを思えば、悲嘆に堪えないし、戦傷を負い、戦災を蒙り、家業を
失ったものの今後の生活については、私は心配に堪えない。
この際、私のできることはなんでもする。
国民は今なにも知らないでいるのだから定めて動揺すると思うが、私が国民に
呼びかけることが良ければ、いつでもマイクの前に立つ。
陸海軍将兵はとくに動揺も大きく、陸海軍大臣は、その心持をなだめるのに、
相当困難を感ずるであろうが、必要があれば、私はどこへでも出かけて親しく
説きさとしてもよい。
内閣では至急に終戦に関する詔書を用意してほしい。」
                      
                 大宅壮一編 日本のいちばん長い日より



139 :ルガー大好き:02/04/03 13:42
終戦の詔書がこの時の天皇の御言葉に基いて起草されたのが良く分かる
気がします。

140 :名無し三等兵:02/04/04 02:40
話ではないですが、
「救国の偉人 米内光政之墓」
米内光政の墓碑銘。

141 :ルガー大好き:02/04/05 13:14
泣ける話の書き込みが減ってしまって寂しいな。
私も書き込むので、皆で泣き合いましょう!!

142 :名無し三等兵:02/04/05 20:08
「私は27年間にわたって軍人として戦い続けてきましたが、
その間に平和を実現することはできませんでした。
しかし、今、その機会が訪れたことは間違いありません。
だからこそ私は、平和にチャンスを与えることに決めたのです。
 今日ここに集まっておられるみなさんは、ここに来なかった人々と共に、
国民は心から和平を望み、暴力に反対しているのだという事を、身をもって示してくれました。
暴力は、イスラエルの民主主義を根底から蝕むものです。
暴力は非難され、排除されなければなりません。
暴力に蝕まれた姿は、イスラエル国家が歩む道ではありません。
 和平への道は、様々な困難と痛みを伴う道だというのが実状です。
イスラエルにとって、痛みを伴わない道は皆無です。
しかし、戦争の道よりは和平の道を望みます。
今日、国防相の立場からイスラエル国防軍兵士の家族の痛みを見ている人間として、
こう言いたいのです。
彼らのために、私達の子供のために、そして私達の孫達のために、
この政府が包括的な和平の推進と達成のために、
あらゆる糸口、あらゆる可能性を探り尽くすように、願ってやみません。

 1995.11.4 当時のイスラエル首相兼国防相ラビン。
テルアビブ市庁舎前で開かれていた平和祈念集会でのスピーチ。
演説の後、ラビン首相が車へ向かおうとした時、狂信的なユダヤ教徒の凶弾に倒れる。
死の直前、彼は集会の壇上で隣にいた元テルアビブ市長にこう漏らしていた。
「私の生涯で最も幸福な時を味わっている気がするよ」

この時期限定な、泣ける話ですかね。
今のパレスチナ情勢を見てると、どうにもやりきれませんな。

143 :井上三等兵:02/04/06 03:23
をとめらの ひなまつる日に いくさをば
         とどめしいさほ おもひてにけり

昭和天皇御製
上海事件3/3停戦の折りの功績を嘉し、
白川大将の死後未亡人に送られし歌です。
白川大将の心意気が素敵だと思いますし、
昭和天皇のお心も素敵だと思いました。

また独白録の中にありましたが、
御前会議と云ふもの の項に述べられている、
「所謂御前会議といふものは、おかしなものである。
枢密院議長を除く外の出席者は全部既に閣議又は連絡会議疾に於て、
意見一致の上、出席してゐるので、議案に対し反対意見を開陳し得る立場の
者は枢密院議長只一人であつて、多勢に無勢、如何ともなし難い。
 全く形式的なもので、天皇には会議の空気を支配する決定権はない」

これ、今は別としてちょっと前までこうじゃありませんか?
先に決めてあったとおりつらつら文章を読んで、書面通りに質疑応答をして・・・

144 :ルガー大好き:02/04/06 11:22
お父様、フミちゃん。太一は本日、回天特別攻撃隊の一員として出撃します。
最後のお別れを充分にして来るようにと家に帰して戴いたとき、実のところは
もっともっと苦しいものだろうと予想して居ったのであります。
しかしこの攻撃をかけるのが、決して特別のものでなく、日本の今日としては
当り前のことであると信じている私には何等悲壮な感じも起らず、あの様な
楽しい時をもちました。
何も申上げられなかったこと申訳ないこととも思いますが、これだけはお許し
下さい。
 お父様、フミちゃんのその淋しい生活を考えると、何も言へなくなります。
フミちゃん立派な日本の娘になって幸福に暮して下さい。
これ以上に私の望みはありません。お父様のことよろしくお願い致します。
お父様泣いて下さいますな、太一はこんなにも幸福にその死所を得て征った
のでありますから、そしてやがてお母様と一緒になれる喜びを胸に秘めながら、
軍艦旗高く大空に翻るところ菊水の紋章もあざやかに出撃する私達の心の中
何と申上げればよいのでせう。
 回天特別攻撃隊菊水隊 今西太一 唯今出撃致します。
        回天特別攻撃隊 菊水隊 海軍大尉 慶応大学出身 26才
                          今西太一様の御遺書                  
      


145 :ルガー大好き:02/04/06 11:24
この御遺書を読むと涙と共に胸が、躍り、高鳴るのも覚えます。

146 :名無し三等兵:02/04/06 18:36
乱れきった政治、風俗。
自分の都合で好き勝手にやるのが「自由」「個性」。
弱きをくじき、強きになびき、誰しも「金、金、金」。

50年以上前、「平和な国」をつくる礎として捨て石になった人達は
今の平和な日本を見てなんと言うだろう。


147 :名無し三等兵:02/04/06 18:46
>146
戦前も大して変わらん。

148 :名無し三等兵:02/04/06 19:23
今日ね、遅まきながら花見と思って靖国神社行ったんですよ。
そしたらね、人がいっぱいいるんですよ、すごい数!
この時期に花見かな?と思って進んでいくとあの『火吹きダルマ』
の像の下に張り紙が張ってるんですよ
「第18回 靖国の桜の下で同期の桜を歌う会」
約500人ぐらいの元軍属の方があちらこちらで再会の敬礼してるんですよ。
自分の所属する旗を持ち出してね「ビルマ歩兵会」「第八予科練会」
「戦車??会」「関東軍??会」
はっきり言って感動したよ。
嗚呼、ここにいる人たちは日本のために一生懸命戦ってきたんだなと、
この人達が今の日本をみてなんて思ってるんだろうな・・・とね

関係ない話なのでsageです。

149 :海の人:02/04/06 19:26
>146
 むしろ、毎日々々空襲におびえたり、配給でその日食べるものにも事欠いたり
あるいは同期で江田島や海兵団で別れた戦友が虫けらのように毎日死んで
いったりすることの決してない今の日本をみたら、きっと自分たちが死んでいった
意味もあったと喜んでくれるでしょう。
 自分の偏屈な価値観による現代社会への悲憤慷慨を正当化するために、
文句も言わずに国のために殉じていった人たちをダシにして語るのはいかが
かと思います。


150 :名無し三等兵:02/04/06 19:52
自分の娘を売って暮らすよりか、自分で売りをして遊んだほうがまだ(周りも)
幸せに決まってるだろうが!!!!!!しかも、娘を売るのも、他に選択肢が無いから
しかたなく売ってたんだよ!!!!!!!自分の進退を自分で決めれるだけ十分
今のほうがマシだよ!!!!理想主義を語るんじゃないぞ!!!!

151 :名無し三等兵:02/04/06 20:31
げ!
>17-18の話は@niftyのネット老人にして経歴詐称コヴァ『南十字星(北斗星、石田某)』では
ないか。
どうせ嘘バナだよ。泣くな。


152 :名無し三等兵:02/04/06 21:40
>>149
146です。あなたの指摘した
「自分の偏屈な価値観による現代社会への悲憤慷慨を正当化するために、・・」
は、たしかにそうかもしれません。
言いたいことを言っても何の不安を感じずに済む時代に生まれたことを感謝します。

スレ違い申し訳ない。

153 :日本はまもなく終了いたします:02/04/06 23:13
しかし50年前の日本人にとって日本は自分が死んでも守る価値の
ある国だったのに、今の日本人は自分の国を守る価値があるとは
全く思っていない辺りが泣ける噺とオモワレ(w
この差は最期の土壇場ではっきりと出て来るだろうね

みなさん長らくのご愛顧誠にありがとうございました。
日本はまもなく終了いたします。

154 :名無し三等兵:02/04/06 23:56
>153
 みたいのが一通り出て行った後、頑張りましょう。

155 :153:02/04/07 00:00
あの、別に煽るつもりで書いたわけじゃなくて
、単に日本の現状を嘲笑っただけなんですが。

156 :名無し三等兵:02/04/07 00:05
コラムE●英国の「空の墓標」
 英陸軍のダンケルク撤退にあたって、英空軍は戦闘機を延べ2739機、
爆撃機を延べ651機、偵察機を延べ171機出撃させて掩護したが、陸軍兵士
には襲い掛かるドイツ機しか目に入らなかった。ほうほうの態で逃げ帰った
彼らはドーヴァーの街頭で空の勇士を吊るし上げ、メディアにも空軍の
不甲斐なさを声高に訴える。英本土決戦に備えるダヴディング大将が
16個飛行中隊しか使わせなかったのも確かに不十分な掩護の一因であった。
救出作戦の真っ最中である5月31日、第213中隊のハリケーン搭乗員
R・D・G・ワイト中尉は母親へこう書き送った。
「お母さん、もし誰かが空軍の不甲斐なさをなじったら、もっと掩護したかった
んだと僕がいっていたと伝えて!飛行機がなかったから、あれ以上はして
やれなかった。あれで最善だった、それでもドイツ野郎の最善の50倍は
やったんだよ。でも心配しないで、お母さん。
最後の一機、最後のパイロットまで僕たちは戦い抜いてみせるから」

「この撤退の成功は空軍のお陰である。」とチャーチルが下院で
謝辞を述べて間もなく、ワイト中尉は祖国の空に散華する。


(;´ー`)y-~~光人社FN文庫
       著:徳田八郎衛「間に合った兵器」より抜粋

157 :名無し三等兵:02/04/07 01:22
>153
そうやって他人を嘲笑うのは、社会を変革させようと
少しでも努力してから言いな、坊や

158 :153:02/04/07 01:43
なんか変な風に誤解されてるようですが。
今の様な我々の情けない現状は笑い話にしかならないな
と嘆いてるだけなんですが。別に誰かを見下して書き込んだ
訳ではありません。見下すとすれば我々自身だと思っていま
すので。

159 :名無し三等兵:02/04/07 03:10
>>158
俺の目にはおまえは荒らしの厨房程度にしか映らない
粛々と進むこのスレの内容をよく読んだ上で
自分の書いた文章をもう一度読み返してみな

今の日本にも真面目に働いて、
家族や子供の未来のために一生懸命な人も居るのですが?
その人たちの存在を、君は完全に忘れ去ってないか?
それとも今の日本はあなたが仰るような腐った連中大多数で
構成されていると思っているのですか?

160 :名無し三等兵:02/04/07 09:12
阿呆は無視しましょう


と言ってみるテスト

161 :ヤマト:02/04/08 00:54
153は荒氏ではないと思うが・・・。
ヤシが言いたい事に共感する面はある。
まあ マタ〜リと行こう。
殺伐とするのは吉野家のU字テーブルでやれば良い。


162 :名無し三等兵:02/04/08 01:30
若者たちの戦場アメリカ日系二世第442部隊の生と死。ドロシーマツオ著。新庄哲夫訳。
第二次世界大戦時、アメリカ本土で収容所に入れられていた日系人、収容所に入れられることはなかったが屈辱的な仕打ちを受けたハワイ日系移民。
その若者たちが志願してアメリカ兵として欧州戦線で戦っていく。
JAPとして差別されていた彼等が、勇猛かつ献身的な戦いぶりにより次第に賞賛されていくのだ。

特にこのエピソードには泣けた。

フランス、ビフォンティーヌ東方で日系人から構成される第442部隊は休暇を取る間もなくドイツ軍によって包囲された大隊の救出を命じられた。テキサスからやってきたこの大隊は深入りしすぎたのだ。そして、多大なる犠牲を払い作戦に成功する。
それで師団長の将軍はじきじきにねぎらいとお褒めの言葉をかけようと、連隊長に命令した。一件も外出許可を出すな。全員足止めさせておけ。激戦の後でうっぷんを晴らしたいのはやまやまだろうが、と。
当日、各中隊の点呼結果が報告された。E中隊がその日連隊最大の中隊だった。整列した隊員42名。中隊の定員は197名だった。I中隊はわずか十数名しか残っておらず、たった一人の二等軍曹が指揮を執っていた。
将軍は連隊長を叱り、こうたしなめた。「連隊全員を集めろと言ったはずだぞ。外出許可を出したようだな」
連隊長は答えた。「連隊全員であります。残りは負傷、もしくは戦死しました」
―――この救出作戦は国防総省の米国陸軍十大重要戦闘の一つに指定されている。
しかし、たった一つの汚点として、師団長が442部隊を投入したのは、日系人を無茶な戦場で損耗しても構わない、という人種差別感情からか、無茶な戦場で任務を達成できるためには勇猛で精強な442部隊が存在していたからなのか。
兵士は言う。「指揮官は最もよく任務を達成できる兵を選ばなくてはいけないのだが、この場合は442部隊がそれに当たったのだ」と。
大隊の故郷テキサスで442部隊の兵士は名誉テキサス人に選ばれ、今でも再会すると助けられた者と助けた者は涙を流して抱擁するという。50年前の光景と同じように。


163 :名無し屯田兵:02/04/08 08:38
TVでイスラエル兵が、自爆テロのことを「カミカゼ」って言ってた。
特攻隊はそれだけ、世界中に知れ渡っているんだろう。
そんなことする連中と戦争はゴメンだと、思わせていれば無駄では
なかったと思いたい。





164 :眠い人 ◆ikaJHtf2 :02/04/08 10:57
Q:「ベトナム戦争でアメリカの猛爆撃からベトナムを奇跡的な勝利に導いた、
  勝利の秘訣は?」
A:「勝利の秘訣はモラルです。高いモラルがあってこそ、才能が生きるのです。
  モラルを失えば害になるだけです」

     元北ベトナム国防相・ボー・グエン・ザップ将軍がインタビューに答えて

165 :名無し三等兵:02/04/08 21:54
暗愚な杉原千畝の為に多数のパレスチナ人が犠牲になった。泣ける。

166 :名無し三等兵:02/04/08 22:50
>>165

わが国は鎖国をして、どこにも迷惑をかけずに生きてきた。
それを無理やり武力で開国させたのは誰か?
日清日露が戦争犯罪にあたるというのなら、よろしい。
墓からペリーをつれてこい!

陸軍中将 石原莞爾

あんたの言い方からすると、鎖国していた日本を無理やり開国させた米国がすべての元凶です。

167 :ごっぐ ◆Cs6PCFec :02/04/08 23:09
>>165は頭の悪い発言スレの誤爆だろ。

168 :名無し屯田兵:02/04/09 09:24
>>146
日本に、元々性規範なんかありません。
乱れようがないのです。
風俗の乱れ等と思うのは、欧米の考え方です。
嘆くのは的外れです。

169 :名無し三等兵:02/04/09 20:50
>>168
同意だねえ。いまの状況はきっと帰り着くべき場所に
帰り着いたということではないかな。

花園メリーゴーランドの世界って、明治や、田舎では
昭和戦前あたりまで普通だったのよ。

170 :無名兵士:02/04/09 21:21
いろいろ議論があるが、こうやって気にかけている連中はまだましだ
兵隊=幽霊などど、とんでもない思い違いをしている連中は救いようがないよ

171 :名無し三等兵:02/04/09 21:29
>168
どっちかというと欧米の倫理というより大陸渡来の朱子学じゃないかな。

172 :名無し三等兵:02/04/09 21:47
>171
朱子学は江戸期には官学とされてましたが、それでも一般人には大して浸透しなかったのは>169のいうとおり。

一般階層における性規範の変化はむしろ戦後の変化のほうが大きいか、と。

173 :別の意味で泣いた:02/04/10 02:10
第二次世界大戦、枢軸国として参戦したイタリアは植民地のリビアからエジプトに侵攻した。
領内200キロまで進撃したが、イギリス軍の反撃にあって800キロ後退。
リビア失陥の危機におちいり、イタリアはドイツに援軍を求めた。

……こんなスゴイ国を盟邦としてWW2を戦った日本。

174 :名無し三等兵:02/04/10 04:20
>173
大事な落ちが抜けてるぞ・・・
「その」イタリアが、三国同盟唯一の戦勝国になった

独自技術に基づいた当時の最新兵器が欧州で猛威を奮った第三帝国、
技術屋と現場の創意工夫で貧乏を補い太平洋を席巻した皇国・・・
軍事の上手さと政治の上手さは全くの別物というのが泣けてくる


175 :プログラマ板より転載:02/04/10 17:05
俺、数年前半年デスマーチが続いて死にたくなった事があったよ。
毎日会社行ったらクライアントが来て職場の椅子に座ってんのね。
そん時向かいの席の先輩が客先に人質になってて、席が空いてたのよ。
でね、俺のクライアントがその空いた席に座ってノート広げて
向かいの席で報告用の書類作ってんのよ。その状態が半年。そう半年。

職場の上司もそのお客さんには頭が上がらないから、俺に押し付けてる。
フォローもしてくんない。職場は禁煙でそのお客さんは喫煙者だから、
しょっちゅう喫煙室に行くわけよ。で、帰ってきたらまた不機嫌そうに
向かいの席でわざと視線合わさないでプレッシャーかけてくんの。

息抜きもできない状態で休日も1日も無い状態で、さすがに精神が
参っちゃって、ある日朝家を出て、駅まで歩く途中で突然、
そうホント突然、死のうと考えたわけよ。

176 :プログラマ板より転載:02/04/10 17:05
でね、職場は千葉の柏だったんだけど、なぜか俺神奈川の関内に行ったわけよ。

何で関内かっつーと、今まで一番好きだった子と学生時代によくデートした
町なんだ。そこから1日中歩いた。風が強い秋の日だったよ。知らない間に
猛暑の夏も終わってて、そんな事も気付かずに半年も働き詰めたのに初めて
気付いて、それもショックだった。

その子とも別れて1年、新しい彼女ができるでもなく、そういう感覚も忘れてた。
そんな事を考えながらふらふら桜木町まで歩いて、名物のガード下の落書き
眺めながら横浜まで歩いて、一緒によく朝まで過ごしたファミレスの近くまで
歩いた。

もう夕方になってた。そのファミレスの前に大きな歩道橋が掛かってて、
下には車がぶんぶん。でね、ここだ!って決めたわけよ。

でもね、不思議な事にそういう時ってなぜか人目を気にしちゃうんだよね。
歩道橋を通る人がなかなか途切れてくれなくて、踏み出せないのよ。
ずぅ〜っと待ってて、やっと途切れて、今だ!って手すりに乗り出そうと
した瞬間、そのファミレスの店員さんと目が合っちゃったんだ。
店員さんは凍りついた感じでこっち見てた。

何故か俺走って逃げちゃったんだよね。

177 :プログラマ板より転載:02/04/10 17:05
でね、またふらふら歩いてそのまま何故か伊勢崎町。横浜の人なら地理
解ると思うけど、一日かけて関内〜横浜を往復しちゃってたの。
でね、ずーっと歩いて京急日の出町の駅まで来ちゃった。
そこね、俺がその子に告白した場所だったんだ。

その瞬間、その日一日デートコースを一人で歩きながら
一度も思い出せなかったその子の顔や表情、しぐさ、声を急に
はっきりと思い出しちゃって、一人で泣いちゃったんだ。
あの頃は輝いてたのに。俺今何やってんだろう、って。

ひとしきり泣いて、泣きつかれて、そのまま藤沢の実家に帰ったよ。

実家に着いたのはもう深夜。俺が帰ったらお袋が泣きながら
俺に抱きついてきた。会社から電話が掛かってきてたらしい。
朝寮を出て出社してない、彼の勤務が最近厳しかったので疲れている
んじゃないか、会社としても非常に心配している、何かあったら
すぐに連絡して欲しい、との事だった。

警察からも連絡があったらしい。関内の駅で捨てた鞄が警察に
届けられてて、中の携帯から実家に連絡が行っていたそうだ。
親父が受け取ってきたその携帯には上司や先輩や同僚や後輩から
バカみたいに沢山着信が入ってた。

普段口うるさい親父が一言、「よく生きて帰って来た、今日は安め」
って言ってくれたのを憶えている。

178 :プログラマ板より転載:02/04/10 17:06

結局死ななかったけど、その夜は眠れなかった。
一晩じゅう「俺の幸せってなんだろう?」って自問自答してた。

翌日昼から出社して、上司に全部話した。
上司も何も文句を言わなかった。
結局その案件は先輩が引き継いでくれた。
クライアントはもう来なくなってた。担当も替わってた。
引き継いだ後、1週間休みを貰った。

1週間、横浜の大桟橋の脇の船着場の浮き桟橋で波に揺られて
毎日ぼぉ〜っとした。「俺の幸せってなんだろう?」って。

俺はやっぱりこの板のみんなと同じでコンピュータが好きだ。
プログラミングが好きだ。誰かとその事で議論するのも好きだ。
後輩に教えるのも好きだし、先輩から昔の話を聞くのも好きだ。
お客さんがすっげえ喜んでくれるのも好きだ。

でね、1週間の長い休みが明けて会社に行って、上司に「やっぱり
この仕事が好きなので続けます」って言ったら喜んでくれた。
こんな事があって、絶対辞めると思ってたらしい。

それから、適当に息を抜く技を身に付けた。
お客さんのアオリのかわし方もうまくなった(と思う)。

179 :プログラマ板より転載:02/04/10 17:06
それから数年、今のカミさんには話した事無いけど、
カミさんとその脇で寝ているガキの顔を見て、
つくづくあの時死ななくて良かったと思う。

>>1
耐えれば幸せになれる訳じゃない。
でも、死んでしまうとその後の幸せにも出会えなくなっちゃうよ。
上手く言えないけど、俺は君に生きていて欲しい。
君なりの幸せがどこかに必ずあるはずだよ。

180 :プログラマ板より転載・おしまい:02/04/10 17:08
軍事とは関係ないです。スマソ
ただ、自分も某M銀行関係SEなもんで、この戦友のレスみて泣いちゃったんだよね。

181 :名無し三等兵:02/04/10 17:11
仕事で厳しい時ってのは誰にでもある。

182 :名無し三等兵:02/04/10 17:48
>>180
私はネットワークエンジニアだが少しはわかる。死ぬなよ戦友。
いざとなったら精神病院に駆け込め。恥じゃないぞ。
危ないところで医者に救けられたヤシも多い。


スレ違いスマソ。

183 :名無し三等兵:02/04/10 17:48
誰にでもあるが、それを乗り越えられるのは誰にでも出来るとは限らない。
そしてその辛さもまた千差万別、他人の経験を軽んじることなぞ誰にも出来はしない。

184 :名無し三等兵:02/04/10 18:38
>>180
う、同業者なり。

私の場合、日頃から上司に文句言ってストレス解消してるけど、
これって上司にストレスがたまってるんじゃないかなーっと思う最近。
でもまぁその分高給なんだしと割り切って生きてます。

関係ないんでsage

185 :三等兵:02/04/10 18:45
PGじゃないがシステム系在宅。不規則出勤。
税務署に社員じゃない扱いされて危なく首切られる処だった。
社長と二人泣きそうになったよ・・・

186 :岐阜県人:02/04/10 22:43
インパール作戦時、ただ一人、部下将兵を餓死させずに、しかも全軍総崩れの中を最後尾を守りつつ、部隊の建制を維持して戻って来た部隊があった。
宮崎繁三郎少将率いる、歩兵第58連隊を基幹とする宮崎支隊だった。
続いて宮崎少将は第53師団長となるが、ここで末期のビルマ戦線を支える矢面に立った。
かくして第53師団を含む第15軍は敵中に孤立し、方面軍に置き去りにされる格好になったが、軍は突破を試み、雨季のチンドウィン川を渡河する。
ここでも宮崎師団長は、インパールのように味方の最後を守って激流を渡った。そして、最後の中隊を掌握してようやく河畔を離れた。
だが、その宮崎師団長を軍司令官桜井省三中将は、近くの村で待っていたのである。
軍司令官は師団長を信頼し、師団長は中隊長を信頼していた。だからこそ、敵中突破も成功したのである。

不敗の最前線指揮官、宮崎中将は、戦後は都内で雑貨店を営み、つつましい余生を送った。
多くの犠牲者から出したにも関らず、戦後も「支隊長殿」「師団長閣下」と懐かしそうに訪ねて来る部下が絶えなかったという。

187 :コヴァ:02/04/10 22:55
 開戦時、インドネシアを攻略した第16軍司令官、今村均中将は、昭和18年悪化する南太平洋の戦局を支える第8方面軍司令官に親補され、ラバウルに向った。
 参謀副長が本土に出張する時には、新島壌の記したキリスト教の研究書を探させたが、出版元にも在庫がなかった。
 そこで副長は噂を頼りに高名な作家を尋ね、その亡子の蔵書を譲ってもらえないかと頼んだ。
 作家は快く応じ、新島の全集は空路ラバウルに向った。しかし、この輸送機は海に墜落し、参謀副長も運命を共にした。
 戦後、帰国した今村大将はウイスキーを携えて、礼に訪れた。息子の思い出の品を失ったと言うのに、この作家は、
「陣中でキリストの教えを学ぼうとした人物だからこそ、8万の将兵を玉砕から救い、無事に連れ帰れたのだ。私は息子の遺品を惜しむものではない」
 とその志を尊び、遂に終生、将軍から贈られたウイスキーを開けなかったという。この作家とは、「銭形平次」の著者、野村胡堂である。

 復員までのある日、ラバウルに入港した復員船に将軍の子息が船医として乗組んで来た。だが、将軍は会いに行かなかった。
「皆、家族と会いたいのだ。自分だけ、家族に会うわけには行かない」というのが理由だった。

188 :名無し三等兵:02/04/11 02:47
第二次大戦時、日本はイタリアとドイツと同盟を結んだが、
これは、理想(独逸)と同類(イタリア)の同盟である

と書いた本があった。
ナルホド。

189 :名無し三等兵:02/04/11 04:40
>>180
2ch来て半年。これ程泣ける話は無かった。
俺はまだ学生だがこれのお陰でこれから先辛い事があった時も少しだけ頑張れる気がする

190 :極東板から転載:02/04/11 16:09
上田 貢(うえだ みつぐ)

富山県出身。
比島セブ派遣憲兵隊所属。
憲兵曹長。
昭和21年6月6日
フィリピン・ルバウにて刑死。
30歳。


(一)
最愛なりし愛子へ
1余と結び、日時短少なりといへども、よく余につかへ、命征きし後、恵子の養育に
 これ務めたるを、心より感謝に堪へず、然るに余、君を遇するに足らざるありを恥づ。
2尚、我逝きし後、君に対する苦難の道多々あるを思ふ。ねがはくは大和撫子の真髄を
 発揮し、君が希望せらるる道を邁進せられん事を。
3君が処世上、若し恵子、重荷となる事あらば、我が両親にこれを托せよ。

(二)
未だ見ざりし恵子へ
1お前の父さんは、国に忠義な立派な人だよ。
2お前の祖父母さんや母さんも立派な日本人です。父さんか無くても、祖父母や母さんの
 お教へを良く守り、立派な人になるのだよ。
3お前が学校へ行く頃は、アメリカ流の教育になつてゐると思ふが、アメリカ流でも、
 良いところは進んで習ひ、人に負けてはいけないが、日本人だといふ事を寸時も忘れ
 てはいけないよ。
 お父さんは永い間外国に居て、外国の女は偉いとは思はなかつた。やはり女の人は、
 日本の女が世界第一立派であつたと思ひます。
 だから大きくなつたら、立派なお母さんになつて、りっぱな日本男子をたくさん生んで、
 父さんがアメリカと戦つて、立派な戦死をした事を伝へて下さい。

 昭和二十一年四月二十三日 於マニラ

191 :お茶っぴき:02/04/11 23:37
>>久しぶりにきました。ここしばらくのレスを見ました。

功名を狙って、戦をした者はいるが、
戦犯と云われる者になりたくて戦をした人はいない。

人の世の情けと不条理に揉まれながら漂う人の
悲しみがここにはある。

俺も所謂IT業界、今となっては思い出話になるが、
その時はマジで然るべき処置をしようと考えたこともある。

泣ける話ですね。
でも、涙から何かを得なくては...。

192 :名無し三等兵:02/04/12 00:53
知り合いのおばあさんに聞いた話

昭和20年の4月頃
おばあさんがある夜、子供と家で寝ていた。
すると誰かが扉を叩いている音がする。
風でゆれたのだろう・・・と思っていると
上の子が「お父さんが帰ってきた!」と騒ぎ出し、
まさか・・・と思い、玄関に行き、「どちらさんですか?」と尋ねたが、
返事がない。しかし人の気配はする。子供は「お父さんだ!」と大騒ぎ
そして玄関を開けてみると、
スゥーっと、1個の人魂が消えていったという・・・。

詳しく話を聞いたり、頼んで昔の写真を見せてもらった。
するとおばあさんの夫は第二水雷戦隊所属だった
オレは、「おおっ!すげえ!」と思うのと同時に、
「・・・・」とも思いました。

193 :名無し三等兵:02/04/12 01:06
知覧に行ったときは泣きそうになったが、人が多かったので必死でこらえた。

それにしても、見学客が多いが、ほとんどの連中が
「フ〜ン」てな感じで、適当に眺めて、通りすぎていくのが腹立たしかった。
あと、三角兵舎の中にタバコポイすてして、その後にピース!で写真とってたバカっぽいカップル!
お前ら、マジで死んでくれ。

194 :名無し三等兵:02/04/12 01:46
>193
>泣かない人間を非難する前に、自らの涙に恥じぬ振る舞いをせよ。
初代スレ756氏


195 :名無し三等兵:02/04/12 02:29
>>180
不覚にも泣いてしまった…ちくしょうめ。

スレ違いスマン。

196 :岐阜県人:02/04/12 20:54
>>186の続き
 ある参謀は、宮崎中将の臨終に間に合った。
 元師団長が死の床で発した最後の言葉は、「参謀、敵中突破でバラバラになった部隊を、確かに掌握したか」であった。
 遂に死ぬまで、宮崎中将は師団長であり続けたのである。豪雨の中でのチンドウィン川渡河が、脳裏から離れなかったに違いない。
 これが指揮官というものであろう。

197 :ヤマト:02/04/14 01:28
コピペで申し訳無いが乃木将軍の話を・・・。

■1."Father Nogi"■

1913(大正2)年2月、ニューヨークで "NOGI"と題する本が
出版された。そのわずか5ヶ月前、明治天皇の崩御(ほうぎょ、
亡くなること)とともに、自刃した乃木大将を描いた本である。
自刃と共に、一気に書き上げ、急いで出版したものである。

著者はスタンレー・ウォシュバン。日露戦争中、シカゴ・ニ
ュースの記者として乃木大将の第3軍に付き添った人物である。
乃木大将の参謀長を務めた一戸(いちのへ)少将は後にこの本
の存在を知って、涙を流さんばかりに喜んで、こう語ったという。

ウォシュバンという男は当時27,8歳の愉快な青年であった。
非常に乃木さんを崇拝したばかりでない。Father Nogi と呼んで、
父のごとくに思っていたようだが、果たしてこういうものを書いていてくれたか。

後に軍神として祀られた乃木大将は、米国青年の眼にどう写ったのだろうか?

198 :ヤマト:02/04/14 01:33
■2.毎朝手元に届けられる死傷者の名簿■

明治37年8月19日、乃木希典大将率いる第3軍は、旅順要塞への総攻撃を開始した。
バルチック艦隊が到着する前に、港内に逃げ込んだ敵艦を撃滅しなければならない。
しかし最新の技術をもって築城した要塞は、第3軍決死の総攻撃にもびくともせず、
戦死者累々の有様であった。この時の乃木大将の様子をウォシュバンは次のように描く。

しかし毎朝手元に届けられる死傷者の名簿を見て、
将軍がどれ程心胸の疵(きず)を深めたかは疑うべくもない。
一週は一週、一月は一月と、この恐怖の月日が長引いて行く間に、
将軍の変化は非常なものであつた。
心労痛苦の皺が、縫い目のように顔面に刻まれ、気色悠揚とした時でも、
新しい皺が創痕のように深く目立っていた。

・・・新任長官として第九師団を編成した時には、
下士官の姓名までいちいち覚えてしまったという人である。
手ずから撫育して多年統率の任に当っていた、我が児のごとき第九師団は、
今や旅順ロ攻撃軍の中心となって、難戦苦闘を極めた点においては、
出征軍中恐らくその右に出づるものはあるまい。

乃木の長男・勝典(かつすけ)は第2軍に属し、5月27日、
遼東半島上陸直後の戦いで戦死。次男・保典(やすすけ)も11月30日、
第3軍の歩兵少尉として戦死してしまった。

199 :ヤマト:02/04/14 01:36
■3.祝賀の陰の涙■

旅順要塞が陥落したのは、ようやく翌38年1月1日であった。
日本軍の犠牲は死者1万5千、負傷者4万4千人に上った。

将軍はたちまち全世界の視聴を一身に集める人となった。
文明国民として、将軍に賛美を呈せぬものはなく、新聞という新聞は、
ことごとく将軍の肖像を掲げ、でたらめの伝記までも書き立てた。
ドイツ皇帝は祝電を送り、勲章を贈った。

しかし、乃木大将はこれにどう応えたか。一副官はウォシュバンにこう語った。

旅順口が陥落して、私たち幕僚が皆祝賀に耽(ふけ)っていると、
いつの間にか閣下の姿が見えない。
もう退席してしまわれたのだ。行って見ると、小舎の中の薄暗いランプの前に、
両手で額を覆うて、独り腰かけて居られた。
閣下の頬には涙が見えた。  そして私を見るとこういわれた。
今は喜んでいる時ではない、お互いにあんな大きな犠牲を払ったではないか。

降将ステッセルとの水師営(すいしえい)の会見は有名である。
各国特派員が写真撮影を求めたが、敵将に恥をかかせることは日本の武士道が許さないとして、
「会見後、我々が既に友人となって同列に並んだ所を一枚だけ許そう」
といい、ステッセル以下と肩を並べて写真に収まった。


200 :ヤマト:02/04/14 01:41
■4.「午後は少し忙しい。」■

5月、第3軍は満州に進出し、司令部は人口5万の町・法庫門に居を構えた。
従軍記者はウォシュバンを含め、3名に減っていた。
石と泥土で建てられた、何の飾りもない小さな家を乃木大将は住居としており、
門に歩哨が立っているのと、将軍達がときおり内庭を行き来しているのを除けば、
他の同じような住宅と区別はつかなかった。

ある日の午後、ウォシュバンはコリヤズ週刊新聞記者のバリーとともに乃木大将の住居を訪れた。
いつものように閑談を伺ったり、一服の茶をふるまってもらうためであった。将軍は大
長靴を脱ぎ、大きな腕椅子に正座して、茶をすすり煙草を喫して、
法庫門の生活などを4,50分ほど語り合った。
ウォシュバンには、この時ほど、将軍がくつろいで見えた時はなかった。

やがて、将軍はこう言った。「今日はこれで失礼します。
午後は少し忙しい。ミスチェンコの兵が、我が軍の連絡を絶つために、
襲撃しようとしていますから。」

ウォシュバンが後で知ったことだが、この時、
わずか1千人しか防御のいない第3軍司令部にミスチェンコ少将率いるコサック騎兵約1万が接近していた。
乃木大将が「少し忙しい」と言ったのは、大至急、味方の兵力を集めることであった。
夕刻には万全の準備が整った。

私たち二人が乃木大将の許に悠々と茶を喫していた時は、
あに図らん、ちょうどこの戦闘準備の最中であったのだ。


201 :ヤマト:02/04/14 01:45
■5.忘れてならぬことは、敵が大不幸をみたことである。■

東郷提督率いる連合艦隊がバルチック艦隊を撃滅した翌日、
夕刻7時に司令部において祝杯を上げることとなり、ウォシュバンも招待された。
乃木大将が「万歳」を叫ぶと、満座これに応じて、
たちまち野砲斉発のような轟きとなって、「万歳」の声が四壁を揺るがした。

乃木大将は微笑を浮べて冷ややかに見渡す。
その微笑もやがては消えて、なかば厳粛になかば悲痛の面持となる。
将軍は右手を挙げる。満堂再び沈静する。
一同体を傾けて将軍の一語をも聴き漏らさじとする。
将軍の言葉は、翻訳によると大要左のごとくである。

我が聯合艦隊のため、我が勇敢な海軍軍人と、東郷提督のために、
祝盃を挙げるのはこの上ないことだ。
天皇陛下の御稜威(みいつ)によって、我が海軍は大勝を得た。
しかし忘れてならぬことは、敵が大不幸をみたことである。
我が戦勝を祝すると同時に、又我々は敵軍の苦境に在るのを忘れないようにしたい。
彼らは強いて不義の戦をさせられて死に就いた、
りっばな敵であることを認めてやらねばならない。
それから更に我が軍の戦死者に敬意を表し、敵軍の戦死者に同情を表して、
盃を重ねることとしよう。

 乃木大将の本色実にここに在る。・・・


202 :ヤマト:02/04/14 01:49
■6.乃木大将のアキレス腱■

ウォシュバンらが、乃木大将の戦功を語るにシーザーやナポレオンなど
歴史上の偉人に比較しようとすると、
将軍はいつも迷惑そうな面持ちで、「アメリカの諸君は大変お上手だから」
と言って、直ちに話題を転じてしまうのが常であった。

しかし、遂に乃木大将のアキレス腱を見つけた。それは詩歌であった。
バリーは、通訳が英語に訳した将軍の詩歌の詩情と典雅な表現に動かされて、
適当な英語の韻律を与えようと、苦心を続けた。

他の手段によってその名誉心に訴えようとしても、
将軍は毫(すこ)しも動ずることがないが、作詩の讃評を聞く時のみは、
小児のように夢中になっていた。
バリー君が翻訳して、しかも佳作となったものを齎(もたら)して、
原詩の情調に適する韻律選択の苦心を語る時、
恍惚(こうこつ)として両眼を閉じて傾聴する将軍の面影が、
髣髴(ほうふつ)として今なお眼前に浮んでくる。
バリー君は将軍の著想を表すのに、シェークスピアの韻律が適するか、
又はスウィンバンのが適するか、それを決めるのが困難だと言って説明した。
・・・そして彼が将軍の作品を論評する時、
将軍は始終ポンチ(漫画)人形のように嬉しそうに見えた。

203 :ヤマト:02/04/14 01:54
■7.暁天の星■

9月、日露講和が成立してウォシュバンらは帰国することとなった。
出発の前夜、送別の小宴が開かれた。乃木大将は体調が悪く、欠席とのことであった。

宴が終りに近づいた時、にわかに入ロの戸が開いた。
一同起立して不動の姿勢をとったと思うと、戸ロの方に乃木大将が立っている。

覆いがたい憂愁に打ち曇ったその時の顔色は、忘れようとしても忘れることはできない。
・・・将軍は微笑だにも漏らさず、しずしずと食卓の上座まで来て、
私たちと握手を交換し、切れるような日本語で従卒を呼んでシャンペンの盃を取った。
再ぴ私たちに向って、淋しいながらも温和な色を浮べて、左のような意味を述べた。

「・・・今諸君の我が軍を去られるに当って、一言を呈せずにはいられない。
しかし訣別の辞を呈しようとするのではない。願わくはお互いの友情を、
永久に黎明(れいめい、夜明け)の空に消ゆる星のごとくにあらしめたい。
暁天(ぎょうてん、夜明けの空)の星は次第に眼には見えなくなる。
しかし消えてなくなることはない。我々は諸君に会わず、
諸君も我々に逢うことがないにしても、各々何処かに健在して、
互いに思いを馳せることであろう」

言い終って将軍は盃を揚げる。一同もまた黙々として盃を揚げた。
やがて将軍は幕僚をふり返って、少しく意気を起して「万歳」を叫んだ。
人々例によってこれに応じた。
この懐かしい叫びは三度鳴り渡った。
将軍は再び握手を交換して、またしずしずと入口の方へ去った。
振り返って一座を見渡し、微笑を浮べて型のごとき挙手を行い、急に転じて出て行ってしまった。

 これが我々の親愛なる老将軍乃木の見納めであった。

204 :ヤマト:02/04/14 01:59
■8.別れ■

翌朝、ウォシュバンらは、一戸少将以下、6名の幕僚に見送られて、法庫門を出発した。
行くこと一マイル、郊外に出ると、一戸少将は馬を停め、こう言った。

「日本人は、友人と袂(たもと)を分かつことを好まない。
私も今告別の詞(ことば)などは申さない。
ただ私たちは此処(ここ)に馬を駐めているから、
諸君は途の曲るところまで行ったら、振り返ってこちらを見て下さい。
私が手をふったら諸君も手をふって下さい。
それをお互いの別れとしましょう」

私たちはそのまま馬を進めたが、胸迫って涙を抑えることができなかつた。
永い間生活を共にしてきた軍人たち、今は友愛の情切なるものもできているのである。
法庫門からの奉天街道が、渓(たに)の細路に通ずる地点に達するまで一マイルは十分あって、
そこから細路が東へ東ヘと迂回して行く。
その地点に達した時、かねての注意に随って振り返って見た。
遥か彼方に騎馬の群が見えていた。私たちは手をふった。
肥えた黒馬に跨(またが)った姿に白くひらめくものが見える。
それは一戸老の手巾(ハンカチ)を振っているのである。

これがいよいよ日本帝国の第三軍との別れとなったのだ。

205 :ヤマト:02/04/14 02:04
■9.過去数百年伝来した理想の実現のために生きた人■

明治天皇崩御の後を追って、乃木大将自刃の報がアメリカに達した時、
この事件がアメリカの国民の間で実にわけの解らぬ事件とされているのを見て、
ウォシュバンは憤り、一気呵成にこの本を書き上げた。

吾人(われら)遠く欧米に在るものよりみれば、
這般(しゃはん、このたび)の行為は聞いてだに戦慄すべきことであろう。
しかし乃木大将を知って、いささか将軍の理想を解し、
先帝(明治天皇)に対する崇拝の赤心(まごころ)を解するものよりみれば、
何ら怪しむべきことに非(あら)ず、ほとんど自然の進退とするほかはない。

乃木大将にとっては、天皇は日本帝国の権化(ごんげ、象徴)であり、
最後に生命を天皇に捧げるのは、すなわち、日本帝国に捧げることであった。
将軍既に自己の事業の終われるを感じ、
疾(はや)くにも平安静寂の境に入るべきことであったとして、
その機会を熱望していたのである。

見地かくのごとしとすれば、必ずまず将軍の絶対無二の立脚地を認めなければならぬ。
そは、旅順口の戦勝者としてに非ず、奉天戦の英雄としてでもない。
ただ本務遂行のために生き、過去数百年伝来した理想の実現のために生きた、
単なる人としてである。

 乃木大将はかくのごとき人であった。
(文責:伊勢雅臣)

206 :ヤマト:02/04/14 02:15
上記はこのサイトから
ttp://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogindex.htm
ここのスレ読者にはリンク提示しても問題無いと思うので・・・。
ご存知の方も多いでしょうが。

207 :ヤマト:02/04/14 02:17
で、私の過去レス。

乃木希典
諸外国の歴史教科書にも記述されている「海軍元師 東郷平八郎」
彼が大日本帝国海軍艦隊を指揮し、奇跡の勝利と言われ、
世界三大海戦の一つに数えられるあの「日本海海戦」
これの最も大きな勝因は無論「旅順攻略」
その熾烈な攻防で乃木は多くの日本国民を失う。
その中、実子戦死の報を受けた乃木は
たった一言「よくぞ死んでくれた」と。
心中いかばかりか・・・。

「山川草木転荒涼・十里風腥新戦場・征馬不前人不語・金州城外立斜陽」

208 :ヤマト:02/04/14 02:20
で、平八殿の過去レスコピペ (勘弁ね>平八殿)

日露戦争後のある年、乃木は私用で長野に赴いた。
秘密にしていたのだが結局そうはいかずつかまってしまい、長野師範学校で
講演を行うよう頼まれた。
講堂に満場の生徒を前にして、校長が乃木の赫々たる武勲を紹介し、
登壇を促したのだが、乃木はどうしても承知しない。
それでも無理強いされるので、乃木は止む無くその場に起立し、たった一言

「諸君、私は諸君の兄弟を大勢殺した乃木であります」

と述べ、あとは言葉もなくただむせび泣いた。これを見た満場の教師・学生も皆泣いた。
(長野県は東京第一師団の管区で、同師団は乃木第三軍に属して多数の犠牲を出している)
乃木のこのたった一言の講演は、長く感動を以って同地に伝えられたという。



209 :名無し三等兵:02/04/14 11:14
乃木将軍の戦死者に対する憐れみとか言動の慎ましさっていうのは、
上品で全てを知リ尽くした上での戦争に対する悲しみを感じる。
それに比べて戦争の事を考えない考えようともしない「戦争は悲惨だ、
戦争反対!話し合えば判る」と言うしか能の無い連中の言葉のいかに
空虚なことか。そういった連中に限って非常時には「麻原なんかさっさと
殺してしまえばいい」とか簡単に言い出す。


210 :名無し三等兵:02/04/14 11:58
乃木大将は色々言われる事の多い人だけど、
こうして見るとやはり明治の将帥の一人と
よく分かりますなあ・・・・。
何年か前まで乃木大将=無能な自殺愛好家と
考えていたのが恥ずかしい・・・・

211 :眠い人 ◆ikaJHtf2 :02/04/14 22:41
スマトラのラハトに駐留していた第九錬成飛行隊には、連絡、航法訓練用に
オランダ軍から鹵獲したCW-22Bを使用していた。

1944年9月24日、連絡飛行のため同機で飛び立った第九錬成飛行隊の
隊長勝村五郎少佐は、用務飛行から戻る途中、P-38に撃墜され、同乗の
玉垣宗治少尉共々戦死した。

隊長は厳格だがユーモアも良く解し、部下の面倒見も良かった。
撃墜された機体の残骸には部下のために買い求めたのであろう、大量の
チョコレートが発見されたのだ。
部下達は部下思いの隊長を失って皆泣いたという。

212 :名無し三等兵:02/04/15 11:21
旧日本軍関係の怖い話@オカルト板
http://curry.2ch.net/test/read.cgi/occult/1014903228/

213 :761:02/04/15 12:51
>>180
この人死ねば楽になってたと思う。

214 :名無し三等兵:02/04/15 14:07
>>213
自分には一番楽だけどね。親戚友人にとっては最悪の選択だな

215 :名無し三等兵:02/04/15 14:30
某スレの2が此処に刻まれない事を祈る

216 :名無し三等兵:02/04/15 15:01
>>215
激しく同意。がんばれ戦友。

217 :中¥某:02/04/16 19:01
日中戦争中、支那派遣軍参謀辻政信は三笠宮の示唆によって、蒋介石の母堂の命日に、その墓前で盛大な慰霊祭を行った。
このことは重慶側にも報道され、たまたま重大会議に出席中、その電報を受け取った蒋介石は、中座して自室に入り、鳴咽の声が洩れ聞こえたという。

218 :名無し三等兵:02/04/16 20:04
>>217
辻たん・・・・はあはあ・・・

219 :名無し三等兵:02/04/16 23:44
>218
辻タンちがい・・・
ののタン・・・マーくん・・・ハアハア

220 :コピペ1/3:02/04/17 00:50
前田萬右エ門

萬右エ門さんは彦根商高を卒業して教師となった。
昭和12年、すゑさんと結婚、その直後にサイパンの実業学校に転勤、長男の義光さん
が誕生した。しかし、義光さんは2歳のときにテング熱を患い、聴力を失う。
昭和19年、萬右エ門さんは陸軍司令官として出征。その前後、和綴のノートに筆で
長男への遺書を認めた。
蹴和21年、「戦死広報」が入るが、詳細はわからなかった。後に戦友の手紙により、
戦死の状況が判明。それによると、昭和20年7月、インパール作戦中、ビルマのコン
クリークで英軍の至近弾を大腿部に受け、戦友が背負って脱出を図った直後に敵部隊
が侵入、自決したという。

221 :2/3:02/04/17 00:52
義光君

義チヤンの不幸に付いてはもう書かないことにします。思へば思ふ程目の前が真暗に
なつて来て断腸の思ひに身が切られる程苦しくなつてきます。何卒父チヤンを堪忍し
て下さいね。

父チヤンが死ぬ時には何卒この父チヤンの耳と口を義チヤンにやつて下さる様、一生
懸命神様に御祈り致します。若し神様が御聞き届け下さつたら此れ以上嬉しいことは
ありません。必ず神様が御聞き届け下さる様一生懸命お祈りします。義チヤンの将来
に付いては暮々も母チヤンによろしく御願ひして置きました。母チヤンの御言付けを
よく守り立派な人間になつて父チヤンや母チヤンを喜ばす様にして下さいね。

父チヤンが居無くなつても決つして淋しがつては駄目だよ。義チヤンは男だもの、
それに目に見へなくても父チヤンは何時も母チヤンや義チヤンや美子チヤンの側に居
て皆様を御守りしてゐます。淋しがらず安心して、母チヤンの御言付けをよく守り、
美子チヤンと仲よく御暮らしなさい。そして将来何でも結構ですから必ず一人立ちの
出来る様に努力して下さいね。

身体を大切にして病気にならない様、そして何時も元気に御暮らしなさいね。
では失敬

昭和十九年九月九日                       父より

222 :3/3:02/04/17 00:54
息子の義光さんは、父の遺書を励みに障害を乗り越え
草津で理容店を開店したそうです。

223 :井上三等兵:02/04/17 02:33
乃木将軍と辻占売り

ご来場なる皆さん方へ平にご免をこうむりまして
何か一席うかがい(読み上げ)まする
かかる外題は何か(を)と聞けば
乃木の将軍辻占売りをうまいわけにはいかないけれど
さらばこれから読み上げまする
明治三十七、八年の日露戦争開戦以来苦戦悪戦いたされまして
我が子二人は戦死をすれどうまずたやまず奮闘いたし
ついに落城いたされまして御旗旅順にひるがえされた
兵の指揮官乃木大将は戦死なさった我が兵卒の
遺族訪問いたされまして謝罪なさったその一席は
頃は二月の如月時よ武士の育ちの乃木将軍は
どこへ行くにも質素な支度今日はおだやか散歩をしようと
家を出かけて梅林にはここに立派な売店ありて
腰をおろして眺めをいたす梅の香りはまた格別で
ついに夜更けて十一時ごろ通りかかった両国橋の
水の面に月ありありて波にゆらるるその風景に
寒さ忘れてたたずむ折りに二人連れなる辻占売りが
破れ袷を身にまとわれて弟手を引き寒げな声で
恋の辻占あの早判り買ってください皆さま方と
客を呼ぶ声さも愛らしや兄は一人で心配いたす。
なぜか今夜は少しも売れぬそんなこととは弟知らず
これさ兄ちゃん寒くてならぬ
早く帰って母ちゃんのそばでだっこいたして寝んねがしたい
言えば兄貴の申することにさぞや寒かろ我慢をおしよ
兄は弟いたわりながら涙声して客呼ぶ声に

224 :井上三等兵:02/04/17 02:35
乃木将軍と辻占売り2

乃木は近寄り子供に向かい
お前ら兄弟いずくの者で年はいくつで名はなんという
言えば子供は涙をふいてわたしゃ十二で弟五つ林善太郎弟勇
父は善吉母ちゃんお里それに一人の婆さんがいて
一家五人で貧しいながら仲むつまじく暮らしていたが
父は戦地へ行かれたままで未だ一度の便りもないよ
どうか様子が聞きたいものと思う折からお役場からの
林善吉ゃ名誉の戦死
これを聞いたる私の婆は力落として病気になりて
熱にうかされうわごとばかりそこで母親途方にくれて
日にち毎日ただ泣くばかりわしはこうして辻占売りで
学校休みに近所の人の
使いいたしてわずかなかね銭をあちらこちらで恵んでもらい
聞いて将軍びっくりいたすわしは乃木じゃがお前の家へ
用があるから案内頼む言えば子供の申することに
勇行こうと弟つれて急ぎ来たのが浅草田町
九尺二間の裏店住まい家は曲がって瓦が落ちる
月はさしこむ風吹きとおす見るもあわれな生活ぶりよ
お待ちください雨戸を開けて坊はただ今帰られました
お里聞くよりニッコリ笑いさぞや寒かろおあたりなさい
なんのご用か知らないけれど乃木の将軍参られました
聞いてお里はビックリいたす
奥に寝ていた老婆も聞いて乃木と聞いてはうらめしそうに
床の中からはいだしながら可愛い倅を殺した乃木よ
たとえ恨みの一言なりと言ってやらんと座を改める
それと聞くより乃木将軍は
婆や御免と腰うちかけて乃木というのはお前にとって
どういうわけにて仇となるか人に話してよいことなれば
一部始終を聞かしておくれ言えば老婆が申することに
聞いてください私の話
わしにゃ可愛い倅があって徴兵検査に合格いたす
しかも陸軍歩兵となりて満期除隊もめでたく済んで
嫁ももらって二人の中に可愛い孫めが二人もできて
うれし喜びわずかの間
日露戦争が開かれまして旅順港なる苦戦に向かい
決死隊にと志願をいたし死する命は惜しまぬけれど
後に残った二人の孫が親のない子と遊んでくれぬ
坊はよけれど勇がふびん
父がこの世にあることなれば人目なりとも逢わせておくれ
せがむ子供の顔見るたびに胸に釘をば打たるる思い
金鵄勲章白木の位牌見せて泣き出すそのありさまを
そばで見ている私のつらさ
こんなときには倅がいたらこんな苦労はさせないものと
どうぞお察しくださりませと

225 :井上三等兵:02/04/17 02:37
乃木将軍と辻占売り3

聞いて将軍涙をふいて
わしも二人殺しておると片手おがみに懐中よりも
金子取り出し紙にと包み
これはわずかの香典なりとあげて将軍我が家へ帰る
お聞きくださる皆さん方へもっとこの先読みたいけれど
名残り惜しゅうはござそうらえどまずはここらでとめおきまして
ご縁あるならまたこの次だがオーイサネ

八木節です。

続いて「招集令」
ところ小倉の町はずれにてその日暮らしの村上清次
さても清次は六十三の年をとったる老婆を抱え
妻のお峰は三年越しの重き病に閉じこめられて
畑の仕事や水田の仕事それも多くは子供のために
休みがちにてますます困る三つ広次は生まれて以来
お乳なければ初めのうちは近所近辺広次を抱いて
もらい乳して育ててきたがそれも他人の親切なれば
そうそ永くは続きはしないそこで近ごろ重湯や飯の
つゆを飲ませて育ててきたがやせおとろえてただ骨と皮
実にあわれな姿となりてある日清次はその広次をば
背におぶうて定一つれて鍬をかついで畑の仕事
通りはたなる木陰の下で広次寝かせて兄定一は
そばで広次の守りをばすれど腹がへったか広次が泣けば
兄の定一父にと向かい広次泣くから帰ろうちゃんと
言えば広次は舌打ひとつ実に子供はがんぜがないと
たった半日またもや清次広次おぶって定一つれて
鍬をかついで我が家をさして帰る途中で

226 :井上三等兵:02/04/17 02:39
召集令2

これこれ清次
声がするのであと振り向けば近所近辺貧乏人に
金を貸し付け非道の利子を取って喜ぶ権兵衛でござる
それと知るより清次はとまり礼儀正しく権兵衛に向かい
聞いてくださいこれひととおり妻のお峯は三年越しの
重き病に閉じこめられて軽いまくらも次第に重く
母は年寄り役には立たずそしてこのように子供がいれば
返すお金は忘れはせぬが元利合わせて五両の金を
つくるどころか晩食う粥をどうしたらよかろと気をもむ始末
どうか暫くお待ちのほどを聞いて鬼権目に角たてて
今日は如何なる言訳しょうと金を取らねば承知はできぬ
ダメだダメだとかぶりを振ってどうしても金がよこせぬならば
それをよこせと清次の肩にかつぎ持ったる鍬をば取って
取ってそのまま行かんとすれば清次その手にしっかとすがり
待ってくだされこれ旦那さまそれが私の品物なれば
なんのいやおう申しませんがそれは私のお得意先の
鍬でござんすそればっかりはどうぞ返してくださいませと
すがる清次を突きころがせばあッと倒れて背中におぶう
広次はひたいを打ったるものかワッと泣きだす流るる血潮
それを見ていた兄定一は子供ながらも健気なものよ
鍬にすがってこれおじちゃんよ持って行かれちゃ仕事ができぬ
どうぞ返してくださいませとすがる定一ふみころがせば
アッと倒れる哀れなものよ道を行く人また帰る人
かわいそうだと思って見るがたれぞ口添えする人はなし
かかるところへ靴音高く村を受け持つ駐在巡査
金子春吉その人なるぞそれと知るより鬼権兵衛は
悪いところへ金子のやつめ来るものよと行かんとすれば
力いっぱい引き戻されて待てというのになぜ待たぬのか
話しゃうしろで残らず聞いた無理な催促したその上で
ひと他人のものだと頼んでいるに持って行くとはそりゃ何事だ
持って行くなら持たしてやろうお前そのような了見ならば
きっと処分で戒めてやるわしの言うことよく聞け権兵衛

227 :井上三等兵:02/04/17 02:40
召集令3

他人はかまわぬおのれの欲を足せばよいとは不埒なやつと
意見されれば鬼権兵衛はそら空吹く風よと耳には入れず
口の中にて不平を言うて人を押しわけすごすご去れば
これを眺めた人々はみなざまを見よとてあと後見て笑う
されば清次は金子に向かい涙ながらに感謝をすれば
金子巡査は清次の右手グッとにぎってこれ村上よ
四百四病のあの病より貧の病はなおさら辛い
母は老後で女房は床に二人子供を抱えた君の
心中察するこれ村上よこれは他人からもらったミルク
家にミルクを飲む子はないで持って帰って背中の坊に
飲ませたまえと一つのミルク出して清次に与えしゆえに
それを受け取り清次はワッと男泣きして押しいただいて
厚く礼のべ立ち去るけるがうしろ姿を打ち見やりたる
金子巡査もハラハラこぼす思いやったる男子の涙
今も今とて巡回ついで役場に立ち寄り話を聞けば
小倉師団に動員くだり清次のもとにも召集令状
きたということまだ知るまいが家に帰れば村上清次
老いし母親病の妻やがんぜなき子の二人を残し
遠い戦地に行かねばならぬまこと哀れじゃふびんでならぬ
しばし涙にかきくれながら清次親子のうしろ姿が
見えなくなるまで見送りましたこちら清次は金子の情
胸に感じてうれし涙を流しながらに戻って母や
妻に金子の温情継げる母は眼をしばたたきつつ
そっと清次を一間に呼んでこれさ清次よお前の留守に
こんな二品届いたけれど嫁に話せば心配すると
思い黙っていましたけれどこれを見たならお前もすでに
わかるでしょうと差し出されて見ればこれこそ召集令状
国を守るのつわもの兵なりとしるす肩から真っ赤なタスキ
さすが清次もびっくりいたしハッととどろく胸をば押さえ
心しずめて両手をつかえ召集令状この赤タスキ

228 :井上三等兵:02/04/17 02:42
召集令4

届きましたるその上からはとても猶予はしておられねば
あとのところはあの母さまへ頼みますると言うのを聞いて
我が子ながらもあっぱれなるぞあとのことなど心配するな
たとえ私や女房や子供飢えて死のうとお国のためじゃ
あとに心を残すでないぞ見事りっぱな働きなして
死んでおくれよ必ずともに生きて帰ると思うでないぞ
言えば清次は涙をはらいほんによう言うてくだされました
敵をなぎ伏せまた斬り倒し死んで骨をばアノ送ります
いかに心を残すなとてもわしが出征したそのあとは
年をとられたあなたと妻と子供ばかりでありますゆえに
村長さまのところへ行ってあとのことをば頼んでこよう
またも広次を背中に負うて兄の定一手を引きながら
来るところが村長宅の勝手もとから入った清次
実は今日これこのとおり招集令状やアノ赤ダスキ
届きましたるその上からはすぐに出発しなけりゃならぬ
わしが行ったるその留守宅は知ってのとおりの事情であれば
熱いものとは申しませんが冷たいご飯のアノ残りでも
うまいものとは申しませんがにがいタクアンの切れ端なりと
どうぞ恵んでくださいませと頼みますればこなたの村長
お前一人をそのようにまで世話をしたならヤレ誰彼と
みんな同じに世話せにゃならぬ慈悲や情のカケラも見せず
はねつけられたよ村上清次神や仏はおろかなことよ
人の情があずれにあるか坊や帰ろとあの定一の
手をばにぎって外にと出たが帰る道なき掛茶屋前で
弁当ひろげた旅人ひとりそばに駈け寄り兄定一が
おじさん白いそのおまんまはうまいか坊も食べたいものと
言うを聞いたる村上清次さても子供はいやしいものよ
今も今とて家出る前にたんとご飯を食べたるくせに
こっちへ来いと兄定一の頭たたいて手を引っぱって
連れて来たった人ない木陰打った我が子の頭をなでて
引いた我が子の手をもにながら人の手前があったればこそ
叱りましたぞたたきもしたがさぞやいたかろ許してくれよ
そちは子供じゃ無理ないことじゃ今に母ちゃん治ったならば
白いご飯やおいしい魚お腹いっぱい食べさせてやる
さあさ帰ろと倅をなだめ我が家をさして帰られまする

229 :井上三等兵:02/04/17 02:43
召集令5

家に帰ればはや日も暮れて燈なければ不思議に思い
母を呼べども答えもあらず妻よお峯よいま帰ったと
呼べど答えぬさて不思議なと急ぎ入って二分芯ランプ
火をばともして眺むるならば母と妻とはのど咽喉を突いて
紅に染まって倒れていればアッと驚きよくよく見れば
生地ににじんだ書置一通取る手遅しと開いてみれば
今日ぞ届いた招集令状それと知ってはおったるけれど
老いし母上この私に心配させじとおかくしなされ
あなた諫めてこの母上があればかえって勇気をくじく
もと原因と母上自害をなさるされば私も母上さまの
あとを慕うてあの世へまいる君のおんためお国のために
残る二人の子供は殺しどうか出征してくだされよ
そして戦地に行かれた上はあっぱれ働きなされた上で
死んでくだされ吾がつま夫さまとつたなけれどもひともじ一文字ごとに
誠こもりた哀れなかきおき遺書これを眺めた清次は遺書を
ぐっとにぎって死骸に向かい母よ、これ妻ようこそ死んだ
清次の未練なくしてやろと命捨ててのそのおぼしめし
かわいそうではありますけれど二人の子供はいま刺し殺し
出征しましょうこれ倅たち君のおんためじゃお国のためじゃ
死んでくれよと心を鬼にせな背の広次を前にとおろし
妻が死んだる出刃包丁を取るとみるよりはやぶっつりと
刺さんとしましたその一刹那飛び込み来たった巡査の金子
待ったこれ待て村上君よ君は子供を殺してまでも
出征いたして忠義と思うか子供二人は及ばずながら
わしが金子が引き受けました心残さず出征いたせ
母や女房のとむらい葬式までもきっと誓って引き受けました
折りも折りとて入りくる一人昼間いじめた鬼権兵衛よ
昼の勢いいまどこへやらあがりがまちに両の手ついて
許してください金子の旦那かんべんしてくれ村上君よ
やっと悪夢がいま覚めましたあとのところは引き受けました
心置きなくお国のためにりっぱな働きしてくだされと
人の性こそ善なるものか鬼といわれたあの権兵衛も
ここにすっかり改心いたすその夜は三人通夜をばいたし
明けてよくちょう翌朝村上清次母や女房の葬式よそに
遅れてならぬとはや出発のほかの出征軍人たちは
旗を押し立て数多の人の見送り人はありますけれど
こちら村上清次の方は貧のつらさでただ一本の
旗もなければ送ってくれる人もないゆえ寂しき門出
かかるところえ鬼権兵衛と金子巡査が駆けつけまして
これよ村上僕たち二人君を送ってやろうと思う
たった人数は二人じゃけれど幾万人の人にも勝る
言えば清次はあの男泣きご恩報じはお国のために
きっと立派な働きしますほんに未練なようではあるが
子供二人の身の行く末をどうかよろしくお願いします
坊や父さん行ったるのちはおじさま二人のいうこと聞いて
言えば二人の幼子たりはもみじ葉のよな手を上げまして
父さん万歳万々歳と呼ばわる声をば後にといたし
急ぎまするがあの兵営よ聞くも語るも涙のタネの
召集令状のこの一くさり国の護りの軍人たちや
母や妻子のよい亀鑑ぞといつの世までも語り継がれる
オーイサネー

230 :名無し三等兵:02/04/17 06:16
ttp://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h12/jog136.html

231 :ルガー大好き:02/04/17 08:19
井上三等兵様
良いお話を聞かせて頂き、本当に有難う御座いました。
先の二話はどんな風に歌われ発表せられたものなのでしょうか。
八木節と書かれて有ったので八木節に乗せて歌われた物なのですか。
宜しければお教え下さい。


232 :名無し三等兵:02/04/17 15:11
>>231
ちょっとは探そうよ
http://216.239.51.100/search?q=cache:t9Rbl0DS4oMC:www.gunma.med.or.jp/ota/reihei/textt.htm+%94T%96%D8%8F%AB%8CR%82%C6%92%D2%90%E8%94%84%82%E8&hl=ja&lr=lang_ja

233 :名無し三等兵:02/04/18 07:05
パレスチナ侵攻調停交渉うまくいかなかったようですね。

ブッシュ政権の中で一番現実的・冷静で、話し合い姿勢を大事にしているように
見えるのが、軍人出身のパウエル国務長官というのも皮肉なものです。

234 :名無し三等兵:02/04/18 07:56
>233
つーか、「軍人」という言葉は別に本人の人格や思考回路を示すものではありませんから……
シャロン叩きに良く使われる「軍人出身で武力行使しか頭にないシャロン」という言い回しにしたって、
それを言うならオスロ合意を成立させつつも凶弾に倒れたラビンだって軍人出身です。

「軍人」という言葉と暴力的だの権威主義だのという表現をイコールで結び付けてしまう
「戦後ヘイワ主義」とはいいかげんおさらばして、
平和な環境を自分のために、そして子孫のために残すために
何ができるか、何をしなくちゃならないか、をマジメに考えるべき時代が来ているわけで……

じゃあそれが人類に出来るのかというと、むにゃむにゃ……

235 :ルガー大好き:02/04/18 08:00
>232
名無し三等兵様
参考の文献をお教え頂きどうも有り難う御座いました。
インターネットの威力をまざまざと感ずることが出来ました。
今後共どうか宜しくお願い申し上げます。



236 :兵八:02/04/18 21:18
 一寸以前に話題になった『涼月』菊水作戦時のエピソードですが、
先日古本屋で『壮烈!水雷戦隊』を発見・購入したので、当該箇所を
ご紹介させてください。
 
 爆弾が命中、艦首をもぎ取られた涼月は、必死の応急作業を行いつつ、
後進で佐世保に帰投しようとします。

 (前略)
 佐世保まで9ノットで18時間。その間を、後進で、逆向きに、人力で舵を操りながら、
爆弾の破口からは、まだ煙を出しながら、すこしもくじけず、元気な360人が、
「フネを沈めるな」を合いことばに、がんばった。
 とうとう涼月は、佐世保に着いた。
「入港用意」のラッパが涼月で鳴った。先着の冬月、雪風、初霜がそこにいた。
 再び見ることはあるまいと覚悟を決めていた故郷の春の緑が、涼月の乗員達の目にしみた。
しかし彼らには、それを見つめる余裕はなかった。ブイにつなごうとしたとき、
急に、船脚が深くなりはじめたのに気付いた。艦が沈みかかっている!
 港務部や、工廠から、曳船が、サイレンを吹き鳴らしながら、全速力で駆けつけてきた。
そのうちの一隻は、Uターンして、ドックの扉をあけに戻った。
 一分一秒が貴重だった。船が精根つきかけていた。3隻の曳船が、1隻は艦尾を、
2隻は両舷から涼月を横抱きにして、強引に、扉を開けたドックに引っぱりこんだ。
涼月がドックにはいるやいなや、すぐ扉をしめ、急いでドックの水を排水しはじめたが、
涼月は、もうそのときには、ズズズズとドックの底にすわりこんだ。水がかい出される
わずかな時間が待ちきれず、ドックのなかで、がっくりと沈没したのだ。

237 :兵八:02/04/18 21:20
「感動しました。われわれもがんばったが、フネもがんばってくれたんです。
 フネも生きているんです。われわれのなかまなんです。われわれ駆逐艦乗りにとって、
 フネと人は、一体なんです。
 やったなあ、涼月。すごかったぞ。水がかい出されたあと、私は、ドックの底に降りていって、
 フネの横腹を手でたたきました。下士官が4、5人、同じようなことをやっていました。
 きっと、私と同じことをいっていたのでしょう――」
 鴫之沢砲術長が、目をうるませて、そういった。
 砲術長はそのあと、艦内を調べていたとき、一番砲の弾薬通路の左舷側、水線下にある
一へやに、下士官、兵長、兵の3人がたおれているのを発見した。
 見ると、そのへやは、丸太で隔壁をささえ、カスガイを打ち、完全に海水を防ぎとめてあった。
 砲術長は、電気にうたれたように、その3人の遺体にむかって、頭をたれた。
涼月は、前に10度傾いていた。それ以上、前部が沈下すれば、沈没はまぬがれなかった。
この3人は、最後までこのへやの空間を守って、浮力がそれ以上減るのを、身をもって
防いでくれていたのだ。
 アメリカ海軍は、田中司令官を、負けじ魂の駆逐艦乗りとたたえた。しかし
駆逐艦乗りの負けじ魂は、人だけのものではなかった。
 人も艦も一体だった。涼月が、それを証拠立てた。そしてそれは、涼月のこの3人の
乗員たちのような、駆逐艦乗りらしいめいめいの判断と献身とでささえられていたのであった。



238 :名無し三等兵:02/04/19 15:22
30代以上板で見つけた。スレ違いだけど。

おい>>1 よ 聞いてくれ
昨日、母の葬式に出たんです。享年54歳。
そしたらなんか自分、涙が一滴もこぼれないんです。
で、よく見たら会ったこともないような親戚のおばさんですら泣いているんです。
もうね、アホかと。馬鹿かと。
俺な、親の死を目の前にして放心してんじゃねーよ、ボケが。
目の前に人が死んでるんだよ、母親が。
なんか親子連れとかもいるし。一家4人で葬式か。ほんとありがとう。
パパは息子さんに挨拶してくるから車で待ってなさい、とか言ってるの。いい親父だな。
俺な、親が死んでんだからもっと泣けと。
葬式ってのはな、もっと殺伐としてるべきなんだよ。
死に化粧をみた瞬間いつ涙があふれてきてもおかしくない、
泣くか叫ぶか、そんな雰囲気が普通なんじゃねーか。オレ、なんなんだよ。
で、やっと葬式が終わったかと思ったら、なんか次々と母のことが思い出されるんです。
そこでまたぶち切れですよ。
あのな、今さら思い出したところで意味ねーんだよ。ボケが。
得意げな顔して何が、今度の休みには帰るよ、だ。
俺は本当に休みに帰るつもりだったのかと問いたい。問い詰めたい。小1時間問い詰めたい。
俺、適当に親との距離をとりたかっただけちゃうんかと。
親不孝者の俺から言わせてもらえば今、若者の間での最新流行はやっぱり、
反抗期、これだね。
親ってのはいつまでも生きているもんだと思っている。これがガキの考え方。
親の期待をかなえたつもりで一人暮らし。そん代わりコミュニケーション少なくなる。これ。
で、「少しだけ仕送りいれといたから」 「ああ、無理すんなよ」。これ最期の会話。
今になって後悔ばかりが思い出される、諸刃の剣
まあお前ら若いもんは、ほんの少しでもいいから親孝行しなさいってこった。

http://yasai.2ch.net/test/read.cgi/middle/1014807248/190

239 :名無し三等兵:02/04/20 02:09
>>238

・・・・・・
・・・・・・・・・
久しぶりに帰ってみるか・・・

240 :名無し三等兵:02/04/20 08:18
びっくりするほど良スレですた>238

うちの親も肝炎見つかってるんだよなぁ。
オカンで、50代後半で、C型で、手遅れってほど進んでる訳じゃ
ないけど、俺離れて暮らしてて、まだ子供居ないから親孝行な
んてゼンゼン。身につまされちったよ。ちょと泣いた。

そしてGWは帰ろうと心に決めた。
親が元気な奴は里帰りして「元気? こっちは元気でやってるよ」
って顔見せて安心させれ。どうせ暇なんだろ? な?

241 :238:02/04/20 14:56
>>240
・・・今朝方亡くなったそうだよ・・・
軍板住人として遠い空に敬礼してご冥福を祈ろう。


242 :名無し三等兵:02/04/22 10:43
泣きますた。涙も枯れよとばかりに。
スレ保存sage

243 :名無し三等兵:02/04/22 21:45
テスト

244 :中¥某:02/04/25 23:39
「私は日本へ帰ったと時、新彊偵察に同行した今田新太郎少将を訪ねた。すると彼は正直者だから、アメリカに頼んで私の命乞いをしようと思いついたらしい。キーナン検事の助言者となった某少将に、そのことを頼みに行った。
ところが、某少将は直ちにアメリカ側に密告して、『辻が帰った。あれは東條以上の戦犯だから捕まえろ』と。
それを聴いたのがオニール・フランク大佐という検事だが、言葉の途中で耳に蓋をして、『そんなことは聴きたくない。日本人が日本人を密告するとは何事か、僕が辻だったら、同じ行動をとったろう』と言ったそうである。
 このことはずっと後になってわかった。二十六年八月、私が悪質の胃潰瘍で日赤病院に入り重態に陥ったころ、突然知らぬアメリカ人の見舞いを受けた。その米人はていねいに見舞ってくれた後、当時の真相を話して去った。
その人こそ、私を捕らえる立場にあった戦犯主任のオニール検事であった。私はアメリカ人は大嫌いだが、中にはこういう例外もあるらしい」
(文春増刊号「沈潜忍苦の十年」より)

245 :中¥某:02/04/25 23:40
下がり過ぎ

246 :名無し三等兵:02/04/26 07:18
まれに見る、良スレ。
久しぶりに感動しました…。

247 :名無し三等兵:02/04/26 18:29
>>244
これは検事の職務怠慢だと思う。
なぜ辻を戦後のさばらせておいた!

このレスだけは泣けるどころか怒りがこみ上げてくる・・・

248 :名無し三等兵:02/04/26 19:52
>>244
ううう、泣けました、ありがとう。

>>247
なにか機嫌悪いの?

249 :無名兵士:02/04/26 22:05
最近買ったのですが、土井全次郎ー兵士の沈黙はいいです。 元朝日の記者ってのは
気に入らないが、泣ける話の宝庫ですよ。 ただあまり売ってないし、買えない人の為
要約して書きます、皆さんは陸軍が潜水艦を持っていたのを知ってましたか?
補給用に急造した300トンクラスのものです。 ただ陸軍が海軍に内緒で作った為
司令塔に目立つ日の丸。 昼間堂々と浮上航行し、船尾には日章旗を掲げて、目立つ事
この上なし、米潜がコレを発見して、あまりの無防備ぶりに困惑しとうとう攻撃をしかけ
られなかった代物でした、海軍の艦艇から、潜行可能ナリヤとからかわれたり、砲撃されたり
と散々でした。 ある日瀬戸内海で訓練航行中に前方より山のような巨大な物が接近してきた
戦艦大和である。 陸兵と言えどもその艦名は知っていた、岡田さんは以前から一度
登舷令をやってみたくてしょうがなかったので、これは良い機会と思い、手空きの者を
総員上甲板にあげて、軍刀を抜き、頭右ーを号令した。 岡田さんはしてやったりと満足だった
しかし、大和を見てもっと驚いた、向こうも甲板に100名位が整列して頭右をやっている
しかも最上級のラッパの演奏つきである。 高々300トンのオモチャのような潜水艦に7万トンの
巨艦が最上級の令を尽くして去っていた。 岡田も感激のあまりに涙がてできた。
時は昭和20年4月6日。くしく大和最後の出撃の日でもありました。

250 :名無し三等兵:02/04/26 22:08
>>249
出版社名キヴォンヌ

251 :空冷發動機:02/04/26 22:25
>>250
光人社から単行本ででてる。
1900円ナリ。



252 :名無し三等兵:02/04/26 22:27
>>249
エエ話や。

253 :無名兵士:02/04/26 23:07
動物モノ、人と軍馬の話や人と犬なんか、まじで泣けるから
人前で読むと大変な事になってしまうかも、捕虜物語も泣けたよ

254 :はぢゅかしながら:02/04/27 18:03
登舷礼上げ

255 :のび太:02/04/27 18:07
上野動物園の戦時中餓死した象の話はわたしのトラウマです
>253

コーネリアス・ライアンのベルリン攻防戦のNFでもティアガルテンの動物園の
飼育係とコウノトリの話でてくるけど涙滂沱

256 :ヤマト:02/04/27 18:27
では・・・。

上野の動物園は、桜の花盛りです。風にぱっと散る花。
お日様に光り輝いて咲く花。
お花見の人たちがどっと押し寄せて、動物園は、砂埃を巻き上げて混み合っていました。
象の檻の前の広場では、今、2頭の象が、芸当の真っ最中です。
長い鼻を、天に向けて、日の丸の旗を振ったり、カラランランと鈴を振り鳴らしたり、
よたよたと、丸太渡りをしたりして、大勢の見物人を、わあわあと喜ばせています。
 その賑やかな広場から、少し離れた所に、一つの石のお墓があります。
あまり気の付く人はありませんが、動物園で死んだ動物たちを、お祭りしてあるお墓です。
お天気の良い日は、いつも、暖かそうに、お日様の光を浴びています。

257 :ヤマト:02/04/27 18:29
ある日。
動物園の人が、その石のお墓をしみじみと撫で回して、
わたくしに、哀しい象の物語を聞かせてくれました。
今、動物園には、三頭の象がいます。
名前を、インデラ、ジャンポー、メナムといいます。
けれども、その前にも、やはり三頭の象がいました。
名前を、ジョン、トンキー、ワンリーといいました。
その頃、日本は、アメリカと戦争をしていました。
戦争がだんだん激しくなって、東京の街には、毎日毎晩、
爆弾が雨のように振り落とされてきました。
その爆弾が、もしも、動物園に落ちたら、どうなることでしょう。
檻が壊されて、恐ろしい動物たちが街へ暴れ出したら、大変なことになります。
そこで、ライオンも、トラも、ヒョウも、クマも大蛇も、 
毒を飲ませて殺したのです。

258 :ヤマト:02/04/27 18:32
三頭の象も、いよいよ殺されることになりました。
まず第一に、いつも暴れん坊で、言う事を聞かない、
ジョンから始めることに成りました。
ジョンは、ジャガイモが大好きでした。ですから、毒薬を入れたジャガイモを、
普通のジャガイモに混ぜて、食べさせました。けれども、利口なジョンは、
毒のジャガイモを口まで持っていくのですが、すぐに長い鼻で、
ポンポンと、遠くへ投げ返してしまうのです。
 仕方なく、毒薬を身体へ注射することになりました。
 馬に使う、とても大きな注射の道具と、太い注射の針が支度されました。
 ところが、象の身体は、大変皮が厚くて、
太い針は、どれもぽきぽきと折れてしまうのでした。
仕方なく食べ物を一つもやらずにいますと、可愛そうに、十七日目に死にました。

259 :ヤマト:02/04/27 18:34
続いて、トンキーと、ワンリーの番です。
この二頭の象は、いつも、可愛い目をじっと見張った、心の優しい象でした。
ですから、動物園の人たちは、この二頭を、何とかして助けたいと考えて、
遠い仙台の動物園へ、送ることに決めました。
けれども、仙台の町に、爆弾が落とされたらどうなるでしょう。
仙台の街へ、象が暴れ出たら、東京の人たちがいくらごめんなさいと謝っても、
もうだめです。そこで、やはり、上野の動物園で殺すことになりました。
毎日、餌をやらない日が続きました。トンキーも、ワンリーも、
だんだん痩せ細って、元気が無くなっていきました。
時々、見回りに行く人を見ると、よたよたと立ち上がって、
「餌をください。」
「食べ物をください。」
と、細い声を出して、せがむのでした。
そのうちに、げっそりと痩せこけた顔に、あの可愛い目が、
ゴムまりのようにぐっと飛び出してきました。
耳ばかりが物凄く大きく見える哀しい姿に変わりました。

260 :ヤマト:02/04/27 18:36
今まで、どの象も、自分の子供のように可愛がってきた象係の人は、
「可哀相に。可愛そうに。」と、
檻の前を行ったり来たりして、うろうろするばかりでした。
すると、トンキーと、ワンリーは、ひょろひょろと身体を起して、
象係の前に進み出たのでした。
お互いにぐったりとした身体を、背中で凭れ合って、芸当を始めたのです。
後ろ足で立ち上がりました。
前足を折り曲げました。
鼻を高く上げて、万歳をしました。
萎び切った身体中の力を振り絞って、芸当を見せるのでした。
芸当をすれば、昔のように、餌がもらえると思ったのです。
トンキーも、ワンリーも、よろけながら一生懸命です。

261 :ヤマト:02/04/27 18:38
象係の人は、もう我慢できません。
「ああ、ワンリーや、トンキーや。」
と、餌のある小屋へ飛び込みました。そこから走り出て、水を運びました。
餌を抱えて、象の脚に抱きすがりました。
動物園の人たちは、みんなこれを見てみないふりをしていました。
園長さんも、唇を噛み締めて、じっと机の上ばかり見つめていました。
象に餌をやってはいけないのです。水を飲ませてはならないのです。
どうしても、この二頭の象を殺さなければならないのです。
けれども、こうして、一日でも長く生かしておけば、戦争も終わって、
助かるのではないかと、どの人も心の中で、神様にお願いをしていました。
 けれども、トンキーも、ワンリーも、ついに動けなくなってしまいました。
じっと身体を横にしたまま、動物園の空に流れる雲を見つめているのがやっとでした。

262 :のび太:02/04/27 18:38
すいません。お話の途中ですが、もうわたし泣き死にます

263 :ヤマト:02/04/27 18:40
こうなると、象係の人も、もう胸が張り裂けるほどつらくなって、象を見に行く元気がありません。
他の人も苦しくなって、象の檻から遠く離れていました。
ついに、ワンリーは十幾日目に、トンキーは二十幾日目に、どちらも、
鉄の檻にもたれながら、やせこけた鼻を高く伸ばして、
万歳の芸当をしたまま死んでしまいました。
「象が死んだあ。象が死んだあ。」
象係の人が、叫びながら、事務所に飛び込んで飛び込んできました。
拳骨で机を叩いて、泣き伏しました。
動物園の人たちは、象の檻に駆け集まって、みんなどっと檻の中へ転がり込みました。
象の身体にとりすがりました。象の身体を揺さぶりました。
みんな、おいおいと声をあげて泣き出しました。その頭の上を、
またも爆弾を積んだ敵の飛行機が、ごうごうと東京の空に攻め寄せてきました。
 どの人も、象に抱きついたまま、こぶしを振り上げて叫びました。
「戦争をやめろ。」
「戦争をやめてくれえ。やめてくれえ。」


264 :ヤマト:02/04/27 18:41
後で調べますと、盥位もある大きな象の胃袋には、
一滴の水さえも入っていなかったのです。
その三頭の象も、今は、このお墓の下に、静かに眠っているのです。
動物園の人は、目を潤ませて、私にこの話をしてくれました。
そして、吹雪のように、桜の花びらが散り掛かってくる石のお墓を、
いつまでも撫でていました。


265 :名無し三等兵:02/04/27 18:51
いや泣いた泣いた。「かわいそうなぞう」いう絵本を幼稚園で読み、
スミレ組園児全員がわんわん泣いた太古の記憶がよみがえりました(w

戦争の惨禍にまきこまれる女子供動物にはかないませんや。


266 :名無し三等兵:02/04/27 19:04
思いだしついでにお薦めの動物戦記あげときます

シーラ・パンフォード『ベル・リア-戦火の中の犬』(中村妙子訳 評論社 1977)
http://www.reviewers.jp/jihyou/hoka/miyake9702.htm

ダンケルクの撤退の描写が見事だったなあ

267 :名無し三等兵:02/04/27 19:21
>>256-265
毎年8月15日に朗読しているラジヲ番組がある。


268 :名無し三等兵:02/04/30 01:51
(;´ー`)y-~~社会科教師スレからのコピペなのだが
       イイ先生や・・・・・


ウチの高校は、日本史の教師がウヨ(国士舘出の若いの)で、
世界史の教師がサヨ(全共闘)でした。

・・・もう、お互い意識しまくり(w

で、物理の臨時講師のジイさんはシベリア抑留帰り(収容所で凍傷で指二本無くしてた)。
定期試験の答案を返したあとで戦争体験を話してくれました。
ロシアの戦車に爆弾もって特攻しようとしたらポツダム宣言とか、
朝鮮の弾薬庫で爆弾解体したとか、収容所で凍傷で腐った指を引きずり出した
話とか。

「日本史と世界史の先生は戦争をいろいろ言っているようだけど、
 実際はこんなもんです。コレでもまだマシなほうです」と
指の三本しかない右手をかざして語られたら、うわべだけの言葉なんて
霞んでしまいました。

…カンノ先生は今でもお元気だろうか…


269 :名無し三等兵:02/04/30 21:49
失礼なことを承知で書かせて頂くと。

俺は思想的にウヨだが、そういう実体験の迫力に圧倒されるだけだと
思考停止で終ってしまうのだが。
「戦場で戦ってる軍人」という現実に物を言えず、結局は崩壊に
たどり着いた戦前とかわんないんじゃないの。

戦争すると怪我をする、ってことで話はおしまい?

270 :無名兵士:02/04/30 22:35
あげだよ

271 :名無し三等兵:02/04/30 23:22
>269
たしかに思考停止はいかんと思うが、本人には何も言わなくて良いと思うよ。
俺たちが批判できる存在じゃないと思う。
批判したくても自分の心の中に留めておくのがよいかと。

272 :名無し三等兵:02/04/30 23:25
>269
「戦場で戦ってる軍人」ほど良識派が多く、
後方で政治ゴッコやってた軍官僚ほど戦争を玩具にする傾向もあったがね。

まあ、某辻ーんのように煮ても焼いても食えない男もいるが(w

273 :名無し三等兵:02/05/01 10:49
>>272
何事も体験しないと分からんちゅ〜こったね。

274 :名無し三等兵:02/05/01 18:45
>>238
遅レスだが。
吉野屋の改変レス見るたんびに、
「お前、ほんとに受けると思ってんのかと問い(略」
と思っていたが、これはしんみりきたよ。

275 :コヴァ:02/05/01 19:56
>>268
 似たような話。
 東京駅の東口にある居酒屋で、友達と飲んでいたら、年取った主人が割り込んで来た。
 関東軍の元憲兵少尉で、シベリア帰りだったそうである。
 当然のように、シベリアでは厳しい洗脳教育に遭った。それでも節を曲げず、帰国して舞鶴に上陸した日には、アカに魂を売ったアクチブを、片端から半殺しにしたそうである。
 終戦間際、負傷した戦友が、飲んだら食中毒になって死ぬようなクリークの水を飲みに行くことをどうしても止められなかったとも語った。
 で、話の途中から泣き出して、
「“天皇陛下の命令”だけで、誰が戦場に行くものか。国に残して来た妻子がいるから、それを守るために兵隊は戦ったんですよ」
 多くの将兵を戦わせたもの、それを否定したら日本という国は消滅するだろう。

276 :無名兵士:02/05/01 20:15
又、兵士の沈黙からひと話、ほとんどの軍オタ諸氏も日赤の従軍看護婦について
興味はないでしょう。 いつか靖国周遊館で展示展をしていたが、自分はもちろん
殆どの人が素どうりしてましたから・・・花田さん(当時26歳)は開戦間際に
極秘に召集された、日華事変で2度大陸にわたっていたが、今回は極秘の召集だった
過去二回、それなりに戦場の血のにおいかいだつもりだが、それでも英米との戦争
が噂されているだけに、体の震えがとまらなかったという、そして12月8日、病院船
のうえで、開戦を知る。 婦長として、部下の看護婦に、どんな事があっても絶対に
あわてないで。と話している。 十代、二十歳そこそこの看護婦が、覚悟はできています
と言ってくれる。 思わず涙している。 看護婦は全員、救命胴衣、腰にはロープ
呼子笛、そしてフカと闘うためにナイフ下げていたと言う、しかも救命ボートは子持ち
看護婦と重傷者だけ、独身看護婦は泳ぐとの前提であったと言う。 戦争が激しくなると
結局、病院船でも物資や兵員を運んでしまう。 それで米潜に撃沈されたり、飛行機が
からかい半分に至近弾を落としていったりする。 それに病院船といえでも不審な動きが
あれば照明弾の嵐で物資でも下ろそうモノなら爆撃されてしまう。 まったくたまらない
夜光虫の輝く美しい海だった、南十字星が南天にあった。 双眼鏡で見張りをしながら
同僚の看護婦がつぶやいた、星は美しいね、でも、いま、私たち地獄を見ているのね
動因された看護婦は三万人、公式な戦死者は1000名とされてるが、戦地で終戦を迎えたり
その混乱や病気で亡くなった人がもっといたはずだと言う。 あまりにも日の目を
みない彼女達に 何と言ってあげてよいのか悩みます。

277 :名無し三等兵:02/05/03 02:38
>>276
うちのバァちゃん(91)は内地だけど従軍看護婦だった。
 まだ生きてるけど、危険な所でも命令とあらば行かざるをえないって言っていた。
 開戦当時ばぁちゃんは32歳。助産婦ですらこうだったのだから・・・276の
看護婦さんたちは女神です。

278 :名無し三等兵:02/05/03 02:43
あ、今年で94だった。

279 :名無し三等兵:02/05/03 04:06
うう。像の話には泣けた。
今度上野動物園に行って手を合わせてくるよ。

280 :名無し三等兵:02/05/03 04:29
>>277
うちのばあちゃんも看護婦だったよ。
千葉の佐倉にある病院に勤めてたとか言ってた。
東京大空襲のころは都内にいたけど離れてて助かったとか。

281 :277:02/05/03 11:52
何か当時の福岡県知事とかの話がいっぱい出てくるの。
 経緯は分からないけど皆死んじゃったって言ってた。
 福岡市近郊の芦屋だったらしい。
ばぁちゃん、女学校も出ず、小学校で出で独学で勉強して
免許取ったって言ってたから看護学校や女学校系列での招集が
なかったのかもしれない。

282 :名無し三等兵:02/05/03 13:01
大学のアルバイトで、九段坂の駅前で入試の道案内をやってたんですけど、一
人のおじいさんが話しかけてきたんです。
「あんた、二松(にしょう)の学生さん?」
「ええ。そうですけど」
「学徒出陣で一緒に行った連中は、とってもいい奴ばっかりだったよ。皆、
帰ってこれなかったが。」
わたしは、なんと答えていいか解りませんでした。
「…」
「いや、邪魔してすまなかった。」
 と、おじいさんは行ってしまいました。靖国神社の目の前の出来事でした。

283 :名無し三等兵:02/05/03 19:57
従軍看護婦の孫さん、あんたいいばあさん持ってて
幸せだな、なんかうまく言えないが、よいなー

284 :名無し三等兵:02/05/03 22:03
>>275
>“天皇陛下の命令”だけで、誰が戦場に行くものか...

友達のおじいちゃんもそういう話をしてくれたよ。

それだけに「皆天皇陛下万歳を叫んで死んだ」とかほざいてる
バカ右翼の連中には本当にムカつく。
それこそ命をかけて戦った人達を
冒涜してるんじゃないかと思えてならない。


285 :名無し三等兵:02/05/03 22:09
>>284
右翼の一部のバカ、と訂正してください(泣)

286 :名無し三等兵:02/05/04 04:28
新新右翼主義が必要だ。旧式はダメだ

287 :名無し三等兵:02/05/04 11:28
問題は893の隠れ蓑だったり、なぜか日本人以外が構成員であることだ<右翼の一部

288 :名無し三等兵:02/05/05 16:03
過去スレに目は通したが、出てないようなので…
もし漏れが見落としてるだけで、既出だったらスマソ。

佐藤源治陸軍曹長
昭和二十三年九月二十二日 ジャワ島ツビナンにて法務死 岩手県出身 三十二歳。

僕は唱歌が下手でした。

一、僕は唱歌が下手でした。
 通信簿の乙一つ
 いまいましさに 人知れず
 お稽古すると 母さんが
 優しく教へてくれました
二、きょうだいみんな 下手でした。
 僕も 弟も 妹も
 唱歌の時間は 泣きながら
 歌へば皆も 先生も
 笑って「止め」と言ひました
三、故郷を出てから十二年
 冷たい風の 獄の窓
 虫の音聞いて 月を見て
 母さん恋しと 歌ったら
 皆が 泣いて 聞きました
四、僕のこの歌 聞いたなら
 頬すり寄せて 抱き寄せて
 「上手になった良い子だ」と
 賞めて下さる ことでせう


289 :名無し三等兵:02/05/05 19:50
こんな歌があったなんて知りませんでした。

長らく「よいとまけの歌」を封印し続けたマスコミ
http://natto.2ch.net/test/read.cgi/mass/1020355927/51

51 名前:文責:名無しさん 投稿日:02/05/04 01:00 ID:4FHri/zS
美輪明宏 - 祖国と女達(従軍慰安婦の唄)1975

北は青森から 南は沖縄
売られ買われて 今日も旅行く
違うお国訛りで 慰め合いながら
捕虜の女囚も 同じ仲間さ
荒れ涯てた肌に やせこけた頬
今日も覚悟の 最後の化粧
バンザイ バンザイ

毎日百から二百 兵隊相手に
朝日が昇り 月が落ちるまで
いずれ死んでゆくことが 決っている男
虚ろに空を 見つめる女
涙も渇れはて痛みもないさ
そこには神も仏もいない
バンザイ バンザイ

誰の子かわからぬ 赤子残して
死んだ女やら 銃を片手に
愛する若い兵士と散った女やら
歌える女は 子守唄を唄う
あまりの怖さに狂った女
嫌な将校に斬られた女
バンザイ バンザイ

男はなんていいんだろう 羨ましいじゃないか
勲章をもらえて 恩給もつくさ
死ねば死んだで 名誉の戦死とやらで
立派な社に奉られるんだろ
私も男に生まれていたら
今ごろきっと勲章だらけ
バンザイ バンザイ

戦に負けて帰れば 国の人たちに
勲章のかわりに 唾をかけられ
うしろ指さされて 陰口きかれて
抱いた男たちも 今は知らん顔
祖国の為だと死んだ仲間の
幻だいて 今日も街に立つ
バンザイ バンザイ

ニッポン バンザイ
大日本帝国バンザイ バンザイ バンザイ


290 :名無し三等兵:02/05/05 21:58
男はいつまで勝手をつづけるのかね。 テロよりエロをしみじみと

291 :名無し三等兵:02/05/05 23:58
女が政治やったって結局同じことだよ。 サッチャー見てみ?
たまたま女が権利も責任も問われない場所にいるだけに過ぎない

292 :名無し三等兵:02/05/06 19:13
でもいつも喜ぶのは、為政者と武器商人さ

293 :名無し三等兵:02/05/06 19:52
為政者は負けたら戦犯よばわりで死刑だからちと違う。
常に喜ぶのは武器屋と、そして他人を煽る煽動屋だね。

294 :名無し三等兵:02/05/06 20:26
>290-293
スレ違いage

295 :名無し三等兵:02/05/06 20:28
>>294は素人童貞のアパムと煽ってみるテスト


296 :名無し三等兵:02/05/06 20:48
私が還ってきた時、皆は私が一人で戦ったと言った。
一人で戦い抜いたと言った。
しかしホントはそうじゃないんですよ。
共に戦った仲間が居た。内地で軍服を作ってくれた人、鉄砲を作ってくれた人も居た。
一人なんかで戦えるわけないんですよ。
人は一人じゃ戦えない。そのことを君たちに良く考えて欲しい。

-小野田自然塾 塾長小野田寛郎
          自然塾にて子供達を前に-

297 :名無し三等兵:02/05/06 21:04
わしが自然塾塾長 小野田寛郎であーる!!

298 :名無し三等兵:02/05/06 23:55
連休の終わりに、兵士の沈黙からも・1本いきます。 陸軍一等兵の面子ー
中国河北省でのおはなし、秋葉さんは警備隊所属だった、たかが20人の隊で
村に駐屯しているが、警備隊同士はまったくの点と点で、実際、住民に寝返られたら
ひとたまりもなかったとある、そんなんで村人には気を使い、簡単な医療行為などして
住民に溶け込むように努力していた。 秋葉さんは、2年兵の一等兵、 隊はまったく
ふざけた構成で、隊長は兵長、あとは4年兵、2年兵は秋葉さんひとりだったという
当然、罰直やイジメ、雑用はかれに集中する。 ある日麻のロープで散々殴られ
気を失いそうになった、すると日ごろは黙っている、中国人の警備隊班長が、血相を変えて
先輩兵に食ってかかった、『やめろ、ここは兵舎ではない、中国人が見ている、アキバの
面子はどうなるんだ!!』『どんな事があっても、中国人の前でなぐってはダメだ』
あまりにも意外な抗議と剣幕に、古参兵は去っていた。 『今までも止めようと思ったが日本軍
内部の事だから我慢していたと言う』 班長の仲間も仲間で、日本人用の卵を盗んできて
卵7個入りのオムレツを作ってくれる。 『このチータン(オムレツ)を食って力を付けろ』
とか『アキバ大人、頑張るんだ、いま病気になったら死んじゃうぞ』なんて励ましてくれる
実はこの話はここで終わる、秋葉さん本人が何故かこれ以上はなしたがらないからだ
中国人が真っ先に口にした面子と言う言葉、そして日本人のイジメ体質・・・・
両国の国民性が出る話でもある。

299 :日本もここまで来たか・・・涙:02/05/06 23:58
>>295
975 名前:名無し三等兵 投稿日:02/05/06 23:53

            人人人人人人人人人人人
               ,ィミ,  ̄ ̄ ̄ ̄ヽ,ィミ,     ┃
                彡 ミ __★_|彡 ミ  ━╋━┓┃┃
             ,,彡   ミ____|彡  ミ,   ┃  ┃
            彡;:;:             ミ,    ┃
         〜三;:;:::::              彡   ┃
         ~~三:;:;:;::::: ∪ ◎     ◎  三~~   ┃
         ~~彡::;:;:;:;∪     ___     ,三~~ ━  ┃
          ~~彡;:;:;:;:;:;:;:.    |   |    ,ミ~~     ┃
          ~~彡:;:;:;:;:;:;:;:;.  ノ――| ---彡   ━━┛

         <<   ウッ! なんだこれは   >>
         << 胸に穴があるのか、それとも >>

http://www.sanspo.com/geino/g_top/gt200205/g_top2002050402.html

300 : :02/05/07 00:02
>>299

日本もようやく欧米並みの
立派な国になれたんだね。
よかった、よかった。。。

|   △    |
| 〔(´ー`)〕  |
(⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒)
|⌒⌒⌒ <⌒ヽ o 。 うああぁぁ...
|      <_  ヽ。
|      o とノ ノつ
|       。  | 〜つ


301 :名無し三等兵:02/05/07 00:33
>299
つーかわざと合わないブラつけて必要以上に大きく見せてるのはいけませんね
こんなうわべだけの西洋化では国を滅ぼしますよ

302 :ヤマト:02/05/07 03:27
>>296
泣ける話スレ初代からで一番泣けた・・・。
こういう漢があの時代にはおおぜい居たんだなあ。
こういう漢達が家族、故郷、日本国のために
身を投げ出して「国交交渉」をしていた時代がつい半世紀前にあったというのに
スパイ船調べるのに強酸の顔色うかがう政権体制に怒りを覚える。

(軍板の中ではイデオロギー色の少ないこのスレで私の個人的感情のカキコは
申し訳無いと思います。すみません)

303 :名無し三等兵:02/05/07 10:50
>>302
小野田さんか・・・最初江田島平八だと思って真面目に読んでなかった(w

304 :名無し三等兵:02/05/07 23:30
>>299
( ゚д゚)ワラタ

305 :304:02/05/07 23:31
× >>299
○ >>299-300

306 :名無し三等兵:02/05/08 02:24
子供「おとう、あれ」
農夫「特攻さんじゃあ」
子供「神風っしょ」
農夫「お国のために死にに往きなさるんたい」
子供「なして、あげん低う飛びよるん?」
農夫「こんちかくにあん人の家ばあるとよ、最後の別ればしちょると」
子供「それじゃ、こん家の上ば旋回しちょると」
農夫「なんと、校長んとこの忠士しゃんかあ?」

父親「かあさん、みんしゃい、忠士だ」
母親「…」
父親「やっぱり今日だったとよ、あげん低うとびよって
  翼ばふりよる、かあさん、みてやりんしゃい。」
母親「…」
父親「戦闘機がバクダンつりよって、ばかなこつ」
父親「忠士よお前はまだわしの半分もいきちょらんのに
  叶うことならかわってやりたかとよ、わしら大人がはじめた
  こん戦になしておぬしらわかいもんが死ににいかねばならんと。」

  父さんは無念で仕方なか.」

忠士「母さん…」

  遺書
 お母さん、どうか泣かないでください。ボクは少しも悲しんでは
 いないから
 死ぬことを少しも怖いとはおもっていないから、
 だから泣かないでください。
 お母さんに泣かれると、ボクはあの世に行ってからどうしていいのか
 わからなくなります。 どうぞいつまでもお元気で。
 さようなら。
      海軍空少尉  速志 忠士

母は頭上を旋回する息子の機の爆音にじっと耐えるように顔をふせて、
泣いていた  とうとう最後まで顔をあげなかった。

父親「速志忠士くん、ばんざーい」

忠士は、もう一度故郷の上を低く旋回した、
さきほこる満開の桜が目にしみて、上空から見る村は
箱庭のように美しく、なつかしかった、
忠士の目に ふいに涙があふれた。

 小澤さとる 黄色い零戦 より

307 :名無し三等兵:02/05/08 07:48
>農夫「こんちかくにあん人の家ばあるとよ、最後の別ればしちょると」
これって、「こんちかくにあん人の家のあっとよ、最後の別ればしちょると」
と思われ
「〜ば」は、「〜を」と考えよう
良く見る誤用

308 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

309 :名無し三等兵:02/05/09 00:02
今さらですが>18のリンク先にある、「帝國海軍は断じて同胞を救ふ」を
読ませていただき、目頭が熱くなりました。。

310 :名無し三等兵:02/05/09 00:21
会社の同僚と俺の幼馴染の家に行った。
そこのじい様がもう寝たきりで、離れにいるとか言う話を友人が話した。
で、軍人だったじい様の語った自慢話やらほら話を友人がしゃべっていた。
その話を興味深く聞いたり笑ったりして聞いていたのだが、じい様が乗っていた船が大和と一緒に沈められたと聞いたとき、同僚の顔が変わった。
同僚は立ち上がり、「じいさんに挨拶させてくれ」と、友人に。

戸惑いながらも友人がじい様の離れに案内した。
同僚は枕もとに正座して、起きているか寝ているのか解らないじい様に語りかけた。
「自分は**君(じい様の孫)の友人で、沖縄出身のXXといいます・・・。みんなを助けに来ていただいて、ありがとうございました。」
別段気負うことなく言い切り、同僚は深々と一礼。
じい様がかすかにうなずいたように見えた。

そのじい様は、どうやら「矢矧」乗り組みだったらしい。

半年後そのじい様は亡くなった。
お通夜には、あの時と変わらず自然体で焼香をする同僚がいた。
カッコよかった。

10年前の出来事です。

311 :無名兵士:02/05/09 22:00
おゲ

312 :名無し三等兵:02/05/11 20:56
>>288さんが挙げられていた佐藤源治曹長の、執行直前の遺書より
(検事たちに向かって)「俺は死刑の執行を受けるが、心に何一つやましい
ところはない。君がいつたような死者もけが人もつくつたことはない。
しかし、今助かることを考へてゐるのではないから誤解するな。
…われわれがいかに最期を遂げるか、その死に臨む様、死の様をよく見ておけ!」
検事にいひ終つてから、ニッコリ笑つてやつたら、彼は泣きそうな大分困った
顔をしてゐた…
便所用水に顔を映して眺める。これが自分の顔の見納めかと思つて見ると、
父の顔に似てゐるなアーと思ふ。笑つてみたり、しかめて見たり、百面相を
やってみた。マタハリの花が枯れるので、その水にさしてやつた。
明日まで咲いてくれと祈りながら。

313 :眠い人 ◆ikaJHtf2 :02/05/12 20:37
鉄道路線・車両板よりコピペ。
なので、sage。

61 名前:名無し野電車区 投稿日:02/05/12 20:27 ID:pb8ZfVON
樺太・豊原駅では大きな白旗を駅舎に掲げ
駅前では赤十字のテントが出て避難民でごった返す中、
ソ連軍に銃爆撃され、多くの避難民が犠牲になったそうな。
当時の北三松駅長は
「少し前まで逃避行で疲労困憊している親の苦労を知らずに遊んでいた
子供が、次の時には白いシャツを真っ赤に染めて体を動かすことは無かった」
と述べていたそうな。
ちなみにこの時は駅舎は半壊し、樺太鉄道局が焼失し、
構内の機関車が爆撃で吹っ飛んでボイラーが地面に突き刺さり、
転車台がひっくり返ったと言われている。

終戦直後の昭和20年8月22日の出来事。

314 :海の人:02/05/12 20:47
 いくさに負けるとはむごいことですなぁ・・・。


315 :名無し三等兵:02/05/13 21:20
>>313
わかってるとは思うけど、日本の正式な降伏日は9/2。
8/15はポツダム宣言受諾を表明した日。日本にとっては
敗戦が決定したメモリアルな日であり、戦闘行為の事実上
終結日だが、「終戦」はまだ。

勝ちも決まったし、相手は敗北決まって撃ち返してこないし
憂さ晴らしでもしてやろう、ぐらいの心境だったんだろうね、
そのソ連軍の指揮官は。戦争はやはり負けちゃダメだね・・・。

316 :じゃがいも:02/05/14 00:21
白虎隊
ttp://www.biwa.ne.jp/~kebuta/MIDI/MIDI-htm/ByakkoTai(Tamura).htm

MIDIです、心静かにお聴き下さい。

317 :名無し三等兵:02/05/14 03:44
>313
ロシアに負けるとこうなんだ。アメリカにかけると精神的に骨ぬきにされ
中国や韓国に負けたら永久にヴァカ呼ばわりされる・・・あれ?目の前に涙が?
 こんな時代に生まれた自分に涙が・・・ご先祖様たちが一所懸命に戦って
作ってくれた世界を日本を故郷を凱旋右翼や震災被災者の国民を見殺し
にして祝杯をあげるるような社民党を存続させていてすみません・・・ウワァーン・・・
 マジデ号泣ニナッテキタ。

318 :名無し三等兵:02/05/14 10:10
>317
安心しろ、社会党を存続させてきたのはむしろ戦中を経験してきたひとたちだ。
経済成長が進むにつれ、社会党への支持は相対的に落ちてきてるのは
戦後史を通しての一貫した流れだよん

もっとも最近はそうしたジジイ連中とその直接教育を受けた労組貴族から見放されたせいで
主婦を相手にするようになってるがね

スレ違い板違い、失礼

319 :無名兵士:02/05/14 22:21
317−心配いらぬ、明治維新前、長州は幕府派と、反幕府とに分かれいてた
反幕府の高杉晋作が、圧倒的不利の中、まず長州藩の幕府派に対して挙兵した
これが、明治維新への引きがけになったとも言えなくもない、従うものわずか
八十四名、ほとんどが侍ではなく、一般市民兵からの男達でありました。

320 :名無し三等兵:02/05/15 04:11
ウワァーンそういえば小泉首相もありえないと言われた首相就任したし
日露戦争ではありえないと言われた勝利、大戦ではあめりかを苦しめまくった
あの底力が有れば・・・いつか僕達の世代が泣ける話に載れるように頑張らないと
今の日本人で変人(少数精鋭)で居る為にはキチガイ呼ばわりされても意志を貫き通す
強い心が必要なのに、そんなの居るのかな泣けてきたウァ-ン

321 :名無し三等兵:02/05/15 18:12
>320
とりあえず社会に出ろ、そして現場を見よ。

戦後日本においても幾多の仕事人たちが世間から石を投げられても己の信念を貫いた、
だからこそ「本土決算」(@志野靖史)は一定の成果を収めたのである。

困ったことは、政治の分野においてそうした人物が
岸信介あたりを最後に見あたらないように見えることだけ。


322 :無名兵士:02/05/15 21:34
追記、後の総理大臣、伊藤俊介(博文)もシッカリいましたけどね

323 :眠い人 ◆ikaJHtf2 :02/05/15 22:05
ウヨサヨ論評抜きで…。

ごきげんやう 日々 きびしい暑さですが おさはりもなく お元気におすごしのこと おめでたく
およろこびします 長い間 おたづねしませんでした この度は 天皇陛下のおみ声をおうかがひに
なったことゝ思ひますが 皆 国民一同 涙をながして伺ひ 恐れ入ったことゝ思ひます
おもうさま 日々 大そうご心配遊しましたが これで 日本は 永遠に救はれたのです

二重橋には毎日 大勢の人が お礼やら おわびやら 涙をながしては 大きな聲で申し
上げてゐます 東宮さんも(中略)…大詔に仰せになったことを よくよく頭に入れて まち
がひのないやうに しのぶべからざることを よくよくしのんで なほ一層一生懸命に勉強をし
体を丈夫にして わさわひを福にかへて りつぱなりつぱな国家をつくりあげなければなり
ません

(中略)

おひるねもありますか 昨年はできないで おこまりでしたね
こちらは毎日 B29や艦上爆撃機 戦闘機などが縦横むじんに大きな音を立てて
朝から晩まで飛びまはつてゐます B29は残念ながらりっぱです
お文庫の机で この手紙を書きながら頭をあげて外を見るだけで 何台 大きいの
がとほつたか わかりません しつきりなしです
ではではくれぐれもお大事に さよなら

三十日午前九時半たゝより
東宮へ

324 :眠い人 ◆ikaJHtf2 :02/05/15 22:17
手紙をありがたう しつかりした精神をもつて 元気で居ることを聞いて 喜んで居ます
国家は多事であるが 私は丈夫で居るから安心してください 今度のやうな決心をしな
ければならない事情を早く話せばよかつたけれど 先生とあまりにちがつたことをいふ
ことになるので ひかへて居つたことを ゆるしてくれ 敗因について一言いはしてくれ

我が国人が あまりに皇国を信じ過ぎて 英米をあなどつたことである
我が軍人は 精神に重きをおきすぎて 科学を忘れたことである 明治天皇の時には
山縣 大山 山本等の如き陸海軍の名将があつたが 今度の時は あたかも第一次
大戦の独国の如く 軍人がバツコして大局を考へず 進むを知つて 退くことを知らな
かつたからです
戦争をつゞければ 三種神器を守ることも出来ず 国民をも殺さなければならなくなつた
ので 涙をのんで 国民の種をのこすべくつとめたのである
穂積大夫は常識の高い人であるから わからない所があつたら きいてくれ
寒くなるから 心体を大切に勉強なさい

九月九日 父より
明仁へ

325 :うわぁーん:02/05/16 03:46
これが公開されて公式に認められたら超一級の一次史料だね。

326 :名無し三等兵:02/05/18 02:16
>325
 世界史をひっくり返すと思われ

327 :名無し三等兵:02/05/18 02:25
>324
山縣は名将なのか?

328 :名無し三等兵:02/05/18 02:53
軍人としては名将、政治家としては独裁者。

329 :眠い人 ◆ikaJHtf2 :02/05/18 10:41
一応、>323-324は今月発行の角川文庫、高橋紘著「象徴天皇の誕生」
より抜粋したものですよ。
興味があれば、ご一読など。

でも、明治の名将に自らの師たる乃木将軍が例示されていないのが
興味深い。

330 :お茶っぴき:02/05/18 13:57
>>眠い人さん
晩年、艦隊派の尻馬に乗った東宮御学問所総裁の名前もありませんね。

公人としての能力をドライというか合理的に見ていたのでしょうか?

331 :レド公路の水上少将:02/05/22 11:38
全滅したと見られていた摺鉢山守備隊でしたが、地下壕には生存者がいました。
戦闘が終結した後の5月中旬、摺鉢山地下壕入り口の木に日本陸軍中尉から米
軍のスプルアンス司令官にあてた手紙が発見されました。

書をしたためた浅田中尉は東大卒、混成第2旅団工兵隊第2中隊小隊長をつと
め、戦闘中に米軍戦車の射撃を受けて重傷を負い、地下壕に残されていました。

手紙を紹介します。

「閣下のわたし等に対する御親切なる御厚意誠に感謝感激に堪へません。閣下
よりいただきました煙草も肉の缶詰も皆で有難く頂戴致しました。御奨めによ
る降伏の儀は日本武士道の慣として応ずることはできません。もはや水もなく
食もなければ13日午前4時を期して全員自決して天国に参ります。
終りに貴軍の武運長久を祈りて筆を止めます。

332 :名無し三等兵:02/05/22 11:41
軍事板に来るととセンチになってしまうな

333 :名無し三等兵:02/05/22 15:58
初めてこのスレ読みましたので記念カキコさせてください。

>>4の話に関連してですが、
現代の話ですが、タンカー等の大きな船で密航者が見つかった場合、
船乗りたちの間では海に捨てるのが普通です。

と言うのも、密航者を見つけた場合、船長が密航者の保護を手厚くせねばいけません。
また、最寄りの港まで送って行かなければならなくなります。
その後に船は当事国の取り調べの為に拘束されます。
すると、莫大な費用がかかる訳です。
そんな面倒な手続きは出来ないので、海に投げ捨てる事が当たり前です。

友人の船大工から聞いた話で、ある日本人船長が密航者を発見して、
海に投げ捨てるのは可哀相だから、海岸の近くまで運んであげて
(タンカーだから、相当な水深が無いと港に入れない)
筏を作ってあげて、そこで密航者を降ろしました。
すると、後になってその密航者がその日本人船長を訴えて、
裁判では「国際法にもとずいた責任を果たさなかった」と当事国に入国禁止になったそうです。
その船長は「助けなきゃヨカッタ」と言っていたと言います。

スレ違い失礼しました。

334 :名無し三等兵:02/05/22 23:48
>>313
そんな中を僕のおばあちゃんと母さんは
命からがら逃げてきたんだ…。
今でも当時のことは全然話してくれないけど
そんなに凄まじかったとは知らなかった。

まめに実家に顔出すようにしようかな。
今更って感じもするけど。

335 :名無し三等兵:02/05/23 00:37
http://credi.tripod.co.jp/tsurezure16.htm

何故かF1板で見つけました(/_T)

336 :名無し三等兵:02/05/23 20:12
>>335
泣けますた。

337 :見回下士官:02/05/24 08:45
保守上ゲ

338 :名無し三等兵:02/05/24 14:03
>>335
何か、パイロットに関して言えば>>103と対照的な話ですね。

170 KB
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています

★スマホ版★ 掲示板に戻る 全部 前100 次100 最新50

read.cgi ver 05.04.00 2017/10/04 Walang Kapalit ★
FOX ★ DSO(Dynamic Shared Object)